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つまり「自分」というものを問題にしない世界なんです。したがって、これだけの修行をしたから悟りはこれだけ返ってくるはずだ、というバーター的な考え方もさせない。この人間としての当たり前の考え方のフレームを最初からたたき切る。
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考えるということの根底に触れることが、一つの重要なことなのかもしれない。人がものを考えるということの根底を一度バラすか、あるいはその意味をとことん問いつめるという作業が、禅の修行中、特に初期段階で方法論的に組み込まれているんです。
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「枯木死灰(こぼくしかい)」という言葉があります。枯れた木のように、冷えた灰のように、一切の思考を止め、世俗から離れるという意味です。そうした態度こそ、修行の理想であると言われるのですが、私の考えはちょっと違って、「考えるのをやめろ」ではなく、人が考えるということの根底に「考えられないことがある」ということに気づくことが重要だと思うんです。それが「不立文字」や、道元禅師の言う「非思量」だろうと。思量するということは、おそらく人間の存在にとって根源的な問題です。ところが、その思量が可能になるのはなぜかというところまで下りると、尋常な方法ではいかない。ブッダの射程距離にはそれがあった。考えるということの限界、あるいは考えるということの根本的な意味まで分け入らなくてはいけない。仏教や禅が一番問題にしているのはそこです。
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成仏というのは要するに人間ではなくなるという話で、仏教の本質に人間性とかヒューマニズムはありません。なぜなら人間というものをトータルに見る視点というのが、その外の世界にしか存在しないからです。だから、現実や人間のありようを丸ごと肯定する立場で仏教を語ると、全然違う話に変わってしまう。
仏教の「縁起」の思想は、日本的な和の思想とぶつかって、みんなで仲良くやりましょうみたいな話にすり替わり、「無我」の話は滅私奉公みたいな話にすり替わってしまった。我々が現実と考えているものは、ある一定の条件における思い込みでしか成立しないから、前提条件が外れると、すべては崩れさるという非常に冷たい考え方なんです。
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問題は情報以前に言葉です。情報で処理するのではなくて、我々はやっぱり言葉のありようを考えないといけない。要するに、言葉というのは自明なものでも透明なものでもないわけです。比して情報というのは、自明かつ透明でないと、そもそも役に立たない。ところが、言葉はもともと自明でも透明でもなく、力です。情報は飛んでいけばその役割を果たしますが、言葉はある種の力を生み出してしまいますからね。
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「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というヴィトゲンシュタインの有名なフレーズがあるじゃないですか。あれをお題目のように唱えている若者はいっぱいいる。問題はその先なんですよね。
語り得ないものに沈黙したら、それでは終わらない。次にどうするかを考える。道元禅師は、「仏向上事」、仏のさらに上を目指せ、悟りを捨ててまた悟れって言うんです。要するに歩みを絶対に止めない。それが彼の苦闘でもあった。悟りというのは、「同得」、つまり言葉であると道元はいいます。悟りに言葉は届かないと言い切ってしまったら、そこで終わり。もしその人が悟っているのだとしたら、言い続けるしか道はない。
しかしそれはとても苦しい。だからこそ、ブッダは生きていることは苦だと言った。仏教は苦しみがなくなるとか、苦しみが全くない世界に行けるという話じゃなくて、苦しくたって生きていけるようにする道を示すものです。
そこには矛盾と苦があって、それがないものは生命ではないんです。
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時代はいかに早く変わり、私たちは過去をどんなに簡単に忘れてしまうことだろう。子供の頃、親戚の人びとが集まると、お互いに畳に頭をつけて丁寧にお辞儀をしていた。祖父がキセルから灰を落としながら、「知らざあ言って聞かせやしょう」と詠じてみせた。時々、戦争の話が出た。今となっては夢のようなあの時代の人びとの完成の海から、小笠原さんは言葉を運んできてくれる。
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つまり「自分が自分である」という根拠が、座禅が深まるとすぐにばらけちゃう。考えてみれば、自意識が露わになるのは取り引きしているときか競争しているときでしょう。また、近代資本主義の社会は、取り引きと競争で成り立っているわけですから、自意識が勝ってくるのが当たり前。しかし座禅の最中に競争や取り引きは一切関係ないですからね。すると、そいういった自意識を公正するような条件はなくなるんです。
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結局、自己っていうのは作っていかなきゃいけないものなんですよ。どの条件でどう作るのか、そしてその条件を引き受けるのか引き受けないのかを決断しなければいけない。つまり自己というのは所与のものではなくて、メチエ(技術)でもって作り出さなきゃならない。
それでは、どのような自己を作っていくか。それは個人の決断によって作っていくしか、もう道はないと思うんです。もし仏教をそのメチエとして使うというんだったら、それないりの方法があります。道元禅師はそれは「自己をならう」と言った。それぞれにそれぞれの自己のならい方がある。自己は複数あって、非常に脆いものだということは、昔から仏教が言っていたことです。
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一回ばらして、もう一回自力で作り上げるっていうのが、仏教の修行なんです。ところが中には、それが悟りで真実だという人がいる。その先どうするのかは何も示されない。
禅に「一所不在」「行雲流水」という言葉があります。止まっちゃいけない。「無常」を掲げる仏教を深刻に捉えたとき、それは結論として言わざるを得ないことだと思うんです。永遠に終わりはない。悟ったらそれを捨てて、さらに上を目指す。前にも話しましたが「仏向上事」という強烈な概念があります。仏のさらにその上、成仏したらさらにその上を目指せということですが、単なる上昇志向というわけではなく、「悟った」「成仏した」で終わると概念になってしまうことを危惧したものです。「無常を生きる」のが仏教者の嘉幸だとしたら、立ち止まったらそれでおしまいです。
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丘で干上がっている人と漂流している人は、不安にとらわれることはあっても、自らを疑う必要がないという点で共通しています。常に疑い、先を読まなければいけないのが航海している人です。自由であるには、非常に強い負荷がかかる中で耐えていかなkちゃいけない。そして一番の問題は、自己を作ることが自由であることですね。
だから大変。無限の可能性があるわけだから。そして作ったらまた解体して。
固まってしまった自己というのはもう自己ではない。自己っていうのは運動ですからね。
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存在における原初的な喪失というのは、代償物では埋まらないと思うからです。「欠けたもの・失ったものを探す」というやり方では絶対に捉えられない。欠けた「もの」も無くなった「もの」もない。ただ「欠ける」んです。ただ「無くなる」んです。だから探しようがない。それを「何かが欠けた」と誤解すると、人はいろんなものをでっちあげてしまう。それが神や宗教、あるいは科学や経済や文化なのかもしれない。本当はただ欠けるだけなのに、欠けたということに対してそれを補おうとする力だけは常に働く。それが内部から力となって働いているとしか思えないんです。
欠けたものを埋めようとする指向性がある。脳の神経細胞にも、空白を埋めようとする指向性があります。
ところが、悲しいのは何が欠けたか絶対にわからないようにできていることです。「何か」が欠けるのではない。欠けることで成立しているのが人間の意識であり、存在なのでしょう。
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解脱なんかできっこない。なぜなら水源がないのに川は流れる。それが自己存在というものだからです。
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哲学者の森岡正博さんが代表作「無痛文明論」で、さまざまな場面で苦痛が取り除かれていく現代社会について批判的に論じていますが、苦というものが除外されていくことの危険が今日リアルにわかりましたね。苦は生きることの本質と結びついているから、それを取り除いたら結局生きていないことになる。
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いろいろな問題について考えるときーそれは科学者でも哲学者でもー、どのぐらいの思考の深さに至れるかということが、知識の量やロジックの強度で決まるものではない、ということです。そのことを最近つくづく実感するんです。そうではなくて、どのぐらい自分の内面についてメタ認識(注 自分の思考や行動を、客観的に把握し認識すること)ができていて、言語化できているかということに依存するのではないか。要するに意識や自我について語るとき、どのぐらいのセルフリフレクション(自己洞察)というか自己反省をしてきたかによって、ある理論やモデルの伸びしろが決まってしまうことを、どうも実感するんですね。
仏教では、その「自己反省」を「疑団」と呼びます。
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私は昔から、理解するとかわかるというのは、わからないことを隠すことだと思っています。むしろ「わからない」というのが考える前提だと思う。災難のように降りかかる、「明らかに重要だけど容易に答えが出ない問題」。これを抱えたままでいると、どんどん追い詰められていくでしょう。「疑団が破裂する」とよく言うのですが、疑団が大きくなったとき、もはや自分の意志でハンドリングできなくなってくる。この疑団が壊れたときにどうするかということが重要で、あらかじめ予測してどうこうしようというのとはちょっと違うんですよ。
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原始仏教の中で、ブッダがこう言うところがあるんですよ。
「世の中にはいろいろな考え方がある。この世はすべて因果で決まっている。運命で全部決まっていると。そういって私の考えを否定する人がいる。またある者は、絶対神がいて、これがすべてを決めていると、私の考え方を批判する。またある人間は、何もかも全部が偶然の産物であると。そう言って、私の考えを否定する人もいる」
しかしブッダは、いずれの考え方も否定するんです。なぜなら、こうした考え方は人が努力して精進することを否定しているからです。ブッダは自分のことを、業論者で行為論者で、精進論者だと言っています。つまり、彼にとって業や因果というのは、修行者として修行を続け、未来に向かって自分を投げ出すための根拠として必要だと言っているんです。ブッダが因果を説くのは、「あらかじめ因果によってものごとは決まっている」ということではなくて、人が努力し、未来に希望を持ち、自分が自分として立っていくために絶対必要な考え方だからというわけです。だから、因果を信じろと。
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やっぱり、根源的に自己の存在というのは投機的なんですよ。化粧もしかり、権力もしかり。仏教の縁起というのもまさにこのことだと思うんですよ。すべては関係性において存在する。
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「破錠しないでいたい」とか「安心できる居場所がほしい」ということを、自分で断念することから始めるしかないわけです。
つまりそれが生を、世界を引き受けることだと私は思うわけです。先ほどから私が、生きることよりも、生きることを引き受けることが決定的に大事だと言っているのは、生が破錠していても構わないと覚悟を決めちゃうことなんですよ。それがいいけどうかはわかりません。ただ、僕はそういう人に激しく共感するし、その決断を尊いと思う。このニュアンスがわかる人には一発でわかる。
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一番まずいのは、イデオロギーとか宗教が生を空虚にする場合があること。信じれば救われるというように、いわば生きることを質入れしちゃう。
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「脚下照顧」という言葉があるでしょう。その脚下にあるのは死だと思う。それを知っている人間だけが、自らの拠って立つ位置がわかると思うんです。それがわからなければ、その人間は生きることのリアリティを感じることはできない。生の強度は軽く薄いものになって、簡単に人生を質入れしてしまうことになる。もっと言うと簡単に騙される。物事を簡単に「わかっちゃう」人になる。
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私に言わせれば「泥になれる」のならまだしも、すでに泥だったらどうするのかが問題。自己や世界という存在は、そもそも無色透明で美しいものではない。
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安心立命というか安心して生きている人を見ると、何か勘違いしているんだろうなとしか思わない。その点、ブッダは「これで安心」というような答えを一つも言わない。これがひどいところなんだけど、私には信頼できる。だった、ニルヴァーナって何か、本当にわからないんですから。知り合いにパーリ語に詳しい人間がいるからその意味を何度も聞いたんです。パーリ語でニルヴァーナというのは、「息を吹くと火が消える」という語意だそうですが、煩悩が消えるというのはどういうことかがわからない。ブッダの言っていることをどんなに読んでも、何が解決なのかわからない。わからないままチップを張るしかないわけです。
島の美しいサンゴの海の周辺には、様々な「もの言わぬもの」の生が満ちあふれていた。海燕や、ゆったりと飛ぶ蝶、そして、珊瑚礁にすむ名も知らぬ色鮮や かな魚たちーーこれらは、私たち人間の作り上げた「言葉」、そして「歴史」や「文明」といった「流通性」や「操作性」のネットワークに決してのることのな い、物言わぬもの、無に等しいものである。もし、大手の資本が、リゾート開発という文明の中で流通することのできる記号をもって乗り込んでくれば、これら もの言わぬものたちは、ひとたまりもなくどこかへ追いやられてしまうであろう。古代のアミニズムの精神がもの言わぬものたちの存在を直感的に感じとってい たとすれば、私たちの「歴史」や「文明」は、これらもの言わぬものたちを切り捨て、人間の間だけで流通する「言葉」のネットワークを構築することから始 まったのだ
竹内薫の日記
を読んで、改めて思うこと。
インターネットの第一原理。
「ネットに匿名で書かれた意見は、存在
しないのと同じである」
もちろん、匿名で意見を書いたり、それを
読んだりする人がいても、全く
かまわない。
オレは読まない、というだけのこと。
竹内が引用している
「子どもの権利条約」は、
人類の骨太の思想の潮流を示している。
それは、ワグナーやブーレーズ、
シェローなどの偉大な芸術家
の作品と同じように、
人間精神の名誉のために
努力してきた人たちによる、
一つの美しい作品なのだ。
世の中の常識から反するようですが、私の最近の主張は「バブルを起こせ」なんです。今回の金融破綻はアメリカの経済バブルが原因。それでみんな困っている。しかし、実はバブルというのは、脳を活性化させるメカニズムとそっくりなんです。
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脳を活性化させるために必要なのは、この一瞬の盛り上がりなんです。みんな勉強って、淡々とやるものだと思っているけど、そうじゃない。英語に興味を持っているなら、自分の中で「英語バブル」を起こさないとならないし、コンピュータに興味を持っているなら、「コンピュータ・バブル」を起こさないと長続きしないんです。
大事なのはメリハリなんですよ。最初に強い情熱を持てるかどうか。対象に向かってドーンと一気に情熱を高めていく。情熱がおさまった後も、興味は静かに続いていきます。これが何かをやり続ける原動力になるんです。何かを成し遂げたいなら、自分の中でバブルを起こさないとダメということなんですよ。
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私は最近『ひらめきの導火線』という本を上梓しましたが、ひらめきも、脳の仕組みからいうとまさにバブルなんです。どういうことかというと、0.1秒くらいの間、神経細胞の活動が一気に上がるんです。そして下がる。ちょうどバブルにおける株価の上昇のようなもの。同じメカニズムなんですね。瞬間的な盛り上がりを何度も繰り返すことによって、われわれは気づきの階段を登っていくというわけです。
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バブルを起こすことには、もうひとつメリットがあります。それは、「次に行ける」ということです。日本の経済バブルもそうでしたが、バブル崩壊の前と後では価値観がガラっと変わりましたよね。高度成長期のモーレツ社会の残像が払しょくされ、人々はエコロジーに関心を持つようになった。やさしい社会になったように感じます。
もとの世界に戻ることはできませんが、次に行くことができる。つまりは「変わっていける」ということです。現代のように流動化した時代を生きる上で、これはすごく大切なことなんですね。
ですから僕は「1日1バブルを起こせ」と言っています。無理やりにでもバブルを起こすんです。昔の言葉でいうと「エンスージアスト」(熱狂者)。わかりづらかったら「感動」でも「感激」でもいい。何かを見て「おお、これはいいぞ、すごいぞ」と飛び上がる。そのテンションをずっと保て、と言っているのではありませんよ。一瞬でもいいからぐっと上げろ、と言っているのです。慣れてきたら日に何度起こしてもいい。金融バブルは困るけど、脳の中のバブルは誰も困りませんからね。
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若い人には、瞬時で判断できる人になって欲しい。そのために必要なのが、「自分自身の基準」を持つことです。それはどうやって身につけるか。最も有効な方法が「メタ認知」です。
簡単に言うと、女性がデートに誘われたとき、「果たして私は行くべきかしら」と自分に問いますよね。これが「メタ認知」なんです。デートに行くか行かないか、自分の心を見つめないとわからないでしょう。それが、内なる心に耳を傾けるということです。他人の意見ではなく、自分がどうしたいのかを知るということ。これができることが、一流になる条件なのです。
これはもう、普段から常に実践するしかないんですね。何か新しいことを思いついたとき、自分がそのアイディアに対してどう感じているのか。これを瞬時に察知する。面白くないと思ったらやめればいいし、いけると思ったら、突き進めばいい。これを繰り返すことで、自分の価値基準が出来上がっていくんです。
若い人は安定を求めたがるけど、今の時代、変われる事が安定なんです。そのためには軸となるものが必要となります。それが自分の価値基準なんですね。自分にとって大切なものが守れるならば、ほかは妥協しても構わない。
歴史上の人物を見てもそうでしょう。大人物と言われる人ほど、自分の軸をしっかり持っている。それでいて移り行く時代に適応性がある。自分の価値基準さえしっかり持っていれば、どこにいってもこわいものはない。それこそ、いつの時代でも生き残っていけるんですよ。
-茂木健一郎
original: http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/proron/0848/proron_0848.html?vos=nynmyajt1830100200
相対性理論によれば、星がどんなに遠くに
あっても、光がそこから私に届く間、
固有時は経過しない。
だから、星はぼくらとつながって
いるんだよ。
相互作用同時性の原理によれば、
因果性を担う世界線に沿って、固有時は
経過しない。
それが、私たちの意識の根源でもある。
だから、何光年も先の星も、
ぼくたちの意識の一部である可能性は
あるんだ。
そんなことを忘れてしまって、
ふだんどうでもいいことに血眼に
なっているぼくらは、よほど愚かだな。
愚かさにつける薬はあるのだろうか。
南十字星を追いかけようと思って、
ずっと歩いていったが、
夜空に浮かぶその姿は
ちっとも大きくなりはしなかった。
- 茂木健一郎
original: http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2009/02/post-389c.html
現代の脳科学は、人間の知性というものは、その本質において社会的なものであるということを示している。映画「レインマン」で有名になった、時に天才的な能力を示すケースが出現する「自閉症」の子供たちの問題点も、他者の心を推定する能力にあることが指摘されている。脳の中の感情をつかさどる部位が、どのようにして天才的な創造の能力を生み出すのか、その詳細はまだ明らかではないが、創造を支える感情のシステムの中核に、他者との関係があることは間違いない。作品を創るとき、それが誰かに見られることを予期しない芸術家は一人もいないだろう。創造の行為とは、すなわち、広い意味でのコミュニケーションなのだということを、ビリーミリガンのようなケースは私たちに教えてくれる。
-茂木健一郎
-original: http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/12/post-cd14.html
池上高志というぼくが出会った
「具体」の中には、無限の吸引力
がある。
具体の力。
ぼくは別に「科学者」になりたかった
んじゃなくて、「アインシュタイン」
に興味があったんだ。
科学者一般なんて、知るもんか。
同様に、「小説」に興味がある
んじゃなくって、
夏目漱石とか、ドストエフスキーとか、カフカとか、ジョイスとか、
特定の作家たちの、自分が愛して
やまない作品に心を惹かれるんだ。
だから、「科学とアートの融合」とか、
そういう言い方は粗すぎるんだよ。
もっと、specificじゃなくては
いけない。
自分のことをぐいぐい惹き付ける、
そんな具体的な明けの明星を
探せよ。
必死になって具体を探せ。
見つけたら、具体に一生かじりついて
いけ。
それが、認識と行動を一致させる
道だ。
-茂木健一郎
original: http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/12/post-2d76.html
茂木健一郎 脳から始まる 第126回
お金という幻想
抜粋
お金は、本質的に社会的な存在である。今回の金融危機では、基軸通貨としてのドルの地位が脅かされていると指摘される。ドルに限らず、お金がお金として流通し、機能するのは、誰もがそれを「お金」として認めるという「期待」があるからである。
もともとは紙切れであるものが、時には生活の根幹すら左右する重大な価値を持つのは、いわば人々の「共同幻想」ゆえ。万が一、「共同幻想」がなくなってしまえば、お金はただの紙切れに戻る。
共同幻想を持つこと自体は、決して悪いことではない。そもそも、脳が認識するものは全て「脳内現象」であり、神経細胞の活動がつくり出した幻想である。目の前にある机は、確かに現実であるかのように思われる。しかし、もとを糾せば、机のイメージは脳の視覚野の活動がつくり出した「幻想」に過ぎない。手で触れれば確かに得られる木の感触も、脳の体性感覚野の生み出した「幻想」に過ぎない。
私たちが使う言葉も、また「幻想」である。「時間」や「空間」、「私」、「あなた」といった世界にかかわる基本的な言葉も、突きつめていけばその根拠はわからない。そのように言葉の「底」が抜けているとわかっている人が、小説家となり、詩人となる。
-yomiuri weekly

"すべては脳からはじまる (中公新書ラクレ)" (茂木 健一郎)
現代のの脳科学においては、人間の知性の本質は、他者とのコミュニケーションにあるとされている。言葉やその他の手段を通した他者との生き生きとした行き交いの中にこそ、人間の脳の本領が発揮されるのである。
ところが、不思議なことに、ときには他者との関係を絶って自らの内に籠ることが必要な場合もある。とりわけ、余人の及ばぬ境地に達しようと努力する中で、世間から離れて自分に向き合うことが不可避になる場合がある。
相対性理論で科学に革命をもたらしたアルベルト・アインシュタインは、「人間の価値はどれくらい自分自身から解放されているかで決まる」という言葉を残した。
多量殺戮兵器やネット詐欺に見られるように、文明の発達は新たな悪を呼ぶ。かといって、人為を否定し自然に戻ればそれでよいかというと、そんなわけにもいかない。生物界は、むしろ、「生きのびるためなら何でもやる」という世界である。
カッコウは、他の鳥の巣に卵を産みつけ、生まれたヒナが他の鳥の卵を落としてしまう。
自らの利益のために他人を犠牲にすることを悪と呼ぶならば、およそ人間が思いつくような悪は、すべて自然界に、すでに、そのひな形があるのである。
作家の島田雅彦さんにこの問題を話したら、「そんなの簡単だよ、自己批評ができる創作者と、それができない人がいるだけだ、それで、後者は、自己陶酔型なんだよ、結局、作品に表れるけどね」と答えが返ってきた。確かに、「ただ面白いものをつくっているだけだよ」と言う創作者の作品は、自己に耽溺する傾向が強いようにも思う。
たとえば、「クリエーター」と自称する者たちのあいだには、ずいぶんなナルシストたちがいて辟易させられる。延々と自分がどう生きてきたとか、作品がどう評価されているかなどの「自分語り」を続け、客観性や歴史の意識がない。
自己批評は、大脳皮質の全頭前野を中心とする自我の中枢のはたらきによって育まれる。いわば、心の贅肉を落として、美しい姿にする精神のダイエットだ。
人間が成熟したかどうかの一つの目安は、どれくらい人の話を聞けるか、というところにあるのではないか。
三浦氏が「下流社会」のなかで指摘した、「下流」の若者ほど「自分らしさ」にこだわるという傾向は、そのことに関係しているのではないかと思う。
元記事:http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/04/post_4420.html
抽象的な思考をするのは
とても好きだが、一方で、
この世のことについては、
プラクティカルな解決を
常に求めるという「パス回し」
の感覚を抱いていたい。
たとえば、ある作品が
諸般の事情により
劇場で上演できなくなってしまったら、
youtubeで流してしまえば良い。
その方が、抗議をしたり、悲嘆に
くれたりするよりもよほど実際的
である。
インターネットの発達の一つの
恩恵は、国家や、組織といった
「重くて巨大な存在」の意味が
相対的に低下したことではないか。
この点において、私たちの
思考が、まだ新しい現実に
追いついていないように
思う。
この世界に壁は沢山ある
けれども、それをうまく回避
して泳ぐことは開かれているし、
いつもそのことを心がける
べきなのだ。
その一方で、時には
壁に思い切り身体をぶつける
ことも大切である。
「壁当たり」の流儀に
おいては、私は現実の壁よりも
概念的な壁の方に関心がある。
インターネットは、現実の壁を
薄くした。
しかし、概念的な壁は、
どうしてもインターネットだけでは
打ち破れない。
時代に閉塞感があるとすれば、
それは、本当に難しいことしか
壁としては残されていなくて、
そこに自分の身体と魂を
ぶつけるという運動を避けている
からかもしれない。
意識の問題。
熱力学の第二法則。
量子力学の観測問題。
生命の起源。
進化の第一原因。
言葉の意味論。
-茂木健一郎
