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1968年を頂点とした自由を求める若者の運動があった。
パリの五月革命も、日本の東大紛争も、その一つの現れだった。
この小説に出てくる人々は、みんなその残党のようにぼくには思える。
そういう哀切の情を書くのに、手紙の束というのはとてもいい方法だ。
でも、誰も手紙を書かない時代にはこういう小説はもう書けない。
池澤夏樹
ぼくはE・M・フォースターの有名な言葉を思い出した──
「国家を裏切るか友を裏切るかと迫られたときに、私は国家を裏切る勇気を
もちたいと思う」。
池澤夏樹
ふつうの作家が十の形容詞から一つを選んで使うとすれば、開高健は三十
くらい並べた中から最適の一つを選ぶ。
派手といえばまさに派手な文体。ちょっと引用するから、心して読んでみ
てほしい——
「こちらの窓のかなたには塹壕(ざんごう)と地雷原、それをこえてゴム林、
国道、とり入れのすんだ水田などが見える。
あちらの窓のかなたには水田、叢林(そうりん)、ゆるやかな丘、そして
果てしないジャングルである。
ジャングルは長城となって地平線を蔽(おお)っている。
その蒼暗(そうあん)な梢(こずえ)に夕陽の長い指がとどきかけている。
農民も子供も水牛もいない。
謙虚な、大きい、つぶやくような黄昏が沁(し)みだしている。
その空いっぱいに火と血である。
紫、金、真紅、紺青、ありとあらゆる光彩が今日最後の力をふるって叫ん
でいた」って、ずーっとこういう感じ。
写真家にはフィルムしかないし、作家には言葉しかない。
見たものを、その驚きを、なんとか伝えようとすると、こういう風に言葉
をせいいっぱい駆使することになる。
夕日一つだけだってこのくらい手間がかかる。
まして戦争だよ。もっともっとすさまじいものを山ほど見せられる。
知的な処理能力をはるかに超える量の現実が押し寄せる。
その果てのあっぷあっぷがこの小説だ。
だからジャーナリズムの仕事を超えて小説になってしまった。
彼が得たのは情報ではなく心身の体験だった。
ぜったいに決まり切った表現に落ち込んではいけない。
そんなもったいないことはできない。命がけなんだから。
実際、サイゴンからまた戻った戦場で彼は戦闘に巻き込まれた。
生存率8・5パーセントという激戦から生還した。
池澤夏樹
人は普段、自分を含む一つの物語を想定して生きている。
まじめに会社に行って、家族を大事にしていれば幸福でいられる、という
のも一つの物語だ。それがリストラされたりすると崩れてしまう。
本人にとってはこれこそ不条理だ。
文化大革命なんて理屈に合わないことばかりが暴力的に起こって、まさに
不条理だったんだろうと思うよ。
残雪が書く話は恐ろしいけれど、その一方でなんともいえない魅力がある。
文章が詩的ですごくうまいのも理由の一つ。
『戦争の悲しみ』

"暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全24巻(第1集))" (バオ・ニン, 残雪)
すごく運がいいことに、日本では平和が60年以上続いている。
きみもぼくも、いや日本人のほとんどが、現実の戦争がどういうものか知
らないよね。
ある男が17歳で戦争に行った。
悲惨きわまる戦闘の日々が数年続いて、ようやく戦争は終わった。
生きて帰った彼は作家になろうと思った。自分の体験を書こうと思い立っ
た。
しかしそれはとてもむずかしいことだった。
戦争のために彼の人格は壊れてしまっていたんだ。
心がぼろぼろになっている。思い出すのも辛いことはどうやって書けばい
いんだろう。
それでも彼は書こうとする。自分の体験に意味があると信じるからだし、
死んでしまった仲間や敵があまりに哀れだから。
書くのは辛いけれど、彼は力を尽くす。
戦争はベトナム戦争であり、従軍した男バオ・ニンはベトナム人。
『戦争の悲しみ』は、戦争についての小説であると同時に、戦争について書
くことのむずかしさを書く小説でもある。読んでいて二重に息苦しい。
それでも先へ先へと読ませる力がある。そこがすごいね。
あの戦争についてはアメリカ側にもいい小説がある。たとえば、ティム・
オブライエンの『カチアートを追跡して』とかね。
だけど、彼らは遠い国に攻めていった方だ。
攻められた側とはずいぶん事情が違う。
自分の国が戦場になるというのは、成人男子だけでなく子供も老人も女た
ちも、みんなが戦闘に巻き込まれるということだ(日本でいえば沖縄戦。あ
るいは各地の空襲)。
だからこの小説には何人もの女が登場する。みんなひどい目に遭う。
主人公キエンは、戦争が終わった時、しっかりした絆で結ばれていたはず
の恋人フォンを失ってしまったことに気づく。
二人とも死なないで済んだのに、仲は元には戻らない。
戦争が彼らのセクシュアリティーを、それぞれ別のやりかたで、壊してし
まった。
彼らはまともな男と女ではなくなってしまった。
そういうところまで書いた戦争小説って、他にないよ。
戦闘のエピソードがたくさんある。
ものすごい雨の中、ある兵士が砲弾でできた穴の底で敵兵に遭遇する。
必死の思いで相手を銃剣で刺す。
でも相手の南側のベトナム兵がその前にすでに重傷を負っていたことに気
づく。
彼はなぜか相手を助けなければと思って、救急バッグを探しに行く。
すごく不思議な心理だけど、そういうことってあるんだね。
もう戦場には敵も味方も誰もいない。
大雨の中を走り回って、ようやくバッグを見つけて戻ろうとしたんだけど、
どの穴だかわからない。砲弾の穴は無数にあるんだ。
焦っていくら探しても傷ついた敵兵は見つからない。
穴には雨水がどんどん流れ込んでいる。
動けないままゆっくり溺死させてしまった兵士のことをずっと気にかけな
がら、彼は戦後の日々を生きる。
バオ・ニンは戦争の悲惨を書いた。
それ以上に戦争の悲しみを書いた。
悲惨だけならいくらでも大袈裟に書ける。
でもこんな悲しみの方はたぶん体験しないと書けないだろう。
体験したからこそ、書くのは辛かっただろう。
池澤夏樹
"熊 他三篇 (岩波文庫)" (フォークナー, William Faulkner, 加島 祥造)
フォークナーが書きたかったのは森の中の雰囲気だ。周りの木々の垂直感、
聞こえる音や、動物の匂い、光の具合、一人ぽっちの感じ、などなどで、そ
れは読んでいて総毛立つほどだよ。こんな話、ぜったい他の誰にも書けない。
池澤夏樹
人間の力を超えるほどの努力をした後で、それが徒労に終わる。
その喪失の感じがじわっと伝わってくる。
生きていくとはこういうことかと思わせる。
もう一つ大事なのは老いというテーマだ。
この老人はもう多くのものを失っている。
力は昔のようではないし、家族もいない。女もいない。
彼を崇拝して、慕って、何かと世話を焼こうとする少年が一人いるだけ。
その子だって舟には乗ってこない。
作家はどんな状況でも作り出せるから、勝利感の話を書くのはむずかしく
ない。
でも喪失感の話を上手に、しかもセンチメンタルでなく書くのはなかなか
大変なんだ。
それがこの話ではうまくいってる。
余計なことを書かないというヘミングウェイの文体がいちばん効果的に使
われた例だね。

"暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全24巻(第1集)) (世界文学全集 1-6)" (バオ・ニン, 残雪)
ベトナム人民軍兵士だったバオ・ニンの小説。これほどまでに文章の行間から死体と硝煙とぬかるみの匂いが立ち昇ってくる小説はない。
人生には云おうがなしに巻き込まれてしまう悲しみがある
世界はこんなに広いし、
人間の思いはこんなに
遠くまで飛翔する。
それを体験してほしい。
-池澤夏樹
http://www.kawade.co.jp/sekaibungaku/list/01.html
これはすごいよ。装丁も美しい。
ほとんど読んでいるけど、もう一度読んで手元に置いておきたい本。

"オン・ザ・ロード (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1)" (ジャック・ケルアック)

"楽園への道 (世界文学全集 1-2) (世界文学全集 1-2)" (マリオ・バルガス=リョサ)

"存在の耐えられない軽さ (世界文学全集 1-3)" (ミラン・クンデラ)

"太平洋の防波堤/愛人 ラマン/悲しみよ こんにちは (世界文学全集 1-4) (世界文学全集 1-4)" (フランソワーズ・サガン, マルグリット・デュラス)

"巨匠とマルガリータ (世界文学全集 1-5) (世界文学全集 1-5) (世界文学全集 1-5)" (ミハイル・A・ブルガーコフ)

"ハワーズ・エンド (世界文学全集 1-7) (世界文学全集 1-7)" (E・M・フォースター)

"アフリカの日々/やし酒飲み(世界文学全集1-8) (世界文学全集 1-8)" (イサク・ディネセン, エイモス・チュツオーラ)

"アブサロム、アブサロム! (世界文学全集 1-9) (世界文学全集 1-9)" (ウィリアム フォークナー)
【第I集】全12巻
1 オン・ザ・ロード(ケルアック)
2 楽園への道(バルガス=リョサ)
3 存在の耐えられない軽さ(クンデラ)
4 太平洋の防波堤/愛人(デュラス)
悲しみよこんにちは(サガン)
5 巨匠とマルガリータ(ブルガーコフ)
6 暗夜(残雪)
戦争の悲しみ(バオ・ニン)
7 ハワーズ・エンド(フォースター)
8 アフリカの日々(ディネーセン)
やし酒飲み(チュツオーラ)
9 アブロサム、アブロサム!(フォークナー)
10 アデン、アラビア(ニザン)
名誉の戦場(ルオー)
11 鉄の時代(クッツェー)
12 アルトゥーロの島(モランテ)
モンテ・フェルモの丘の家(ギンズブルク)
【第II集】全12巻
1 灯台へ(ウルフ)
サルガッソーの広い海(リース)
2 失踪者(カフカ)
カッサンドラ(ヴォルフ)
3 マイトレイ(エリアーデ)
庭、灰(キシュ)
4 アメリカの鳥(マッカーシー)
5 クーデタ(アップダイク)
6 軽蔑(モラヴィア)
見えない都市(カルヴィーノ)
7 精霊たちの家(アジェンデ)
8 パタゴニア(チャトウィン)
老いぼれグリンゴ(フエンテス)
9 フライデーあるいは太平洋の冥界(トゥルニエ)
黄金探索者(ル・クレジオ)
10 賜物(ナボコフ)
11 ヴァインランド(ピンチョン)
12 ブリキの太鼓(グラス)
池澤夏樹
もともとフランス人はあまりお金のことを言わない。
親しい仲でも収入の話などはしないし、外から目立つ豪邸も建てない。
この町のお屋敷にしてもだいたいが塀に囲まれていて規模がわからない。
招かれて中に入ってこんなに大きかったのかと驚いたりする。
それがカトリックの伝統だと説明された。
信者にとって金儲けは神の前で恥ずべき営みだった。
だから金融業をユダヤ人に任せることになり、それが彼らに対するねじ
れた恨みと差別を生んだ。
それに対してプロテスタントで営利が推奨されることはマックス・ウェ
ーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で明らかにし
たとおり。それが今のアメリカ経済の基本思想である。
成功者は神に選ばれたのだと言わんばかりのネオ・リベラリズムである。
サルコジの登場によってフランスも経済優先主義に一歩寄ったような気
がする。その一方でナショナリズムも主張する。
ぼくの杞憂であるといいのだが、ひょっとしたらフランスは本当に変わ
るかもしれない。
-池澤夏樹
