40 posts tagged “内田樹”
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人間が知的ポテンシャルを一気に向上させるのは、「自分が何をしているのかよくわかっている」ときではなく、「自分が何をしているのか、よくわからない(でも、もうすこしでわかりそう)」ときである。
学校教育とはこの「自分が何をしているのか、よくわからないけれど、なんだかもう少しでわかりそう」という状態を長期にわたって継続させることをめざして制度設計されている。
学校をめぐる「儀礼」の多くはその「わからないけど、わかりそう」というグレーゾーンに子どもをとどめおくために、きわめて巧妙に構築されているのである。
学校制度を構築している無数の「よく意味のわからないきまりごと」については、これを軽々に「合理的」判断に基づいて改廃すべきではない。
たとえば学校というのは通常「装飾性のつよい、ことごとしい建築物」であるが、これはそこが「非現実的なことがなされる場」であることを子どもたちに印象づけるための仕掛けである。
養老先生によれば、ヨーロッパにゆくと、どこの街でもいちばん豪奢なのは教会と劇場だそうである。
「そこが嘘が語られるところだから」だ、というのが養老先生のご意見である。
「この中で語られることは現実の話じゃありませんよ」ということを外見の過剰な装飾性によってあらかじめ「おことわり」しておくのである。
-内田樹
「大人」とは人間の社会的活動の意味を考量するときに「それをするといくらになるの?」というような「子どもじみた」問いを発しない人間のことである。
なぜ、そのことをしなければならないのか、その理由を「それがもたらす利益」によって実定的に言うことはできないが「どうしても、そのことをしておかない
と、
『よくないこと』が起こりそうな気がする」という直感に基づいて、誰にも命じられず、誰にも責任の分担を求めず、固有名において「そのこと」を敢行できる
人間、それが「大人」である。 - 内田樹
original: http://blog.tatsuru.com/2009/09/18_1754.php
それは「デモクラシーにおいて、公務員が他より権力を悪用するとしても、権力をもつ期間は一般に長くはない」からである。(アレクシス・ド・トクヴィル、 「アメリカにおけるデモクラシーについて」、岩永健吉郎訳、『中央公論世界の名著33』、中央公論社、1970年、456頁)
デモクラシーが前提にする人間観は、人間はたいていの場合、権力を長くもつと「悪いこと」をするという経験則である。
だから、統治者を定期的に交替させるルールが必要である。
「疑いもなく、支配者に徳と才とが備わっていることは、国民の福祉にとって重要である。しかし、それにもまして重要なのは、被支配者大衆に反する利害をも
たぬことである。もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんど用がなく、才能は有害になろうからである。」(457頁)
トクヴィルがこの文章を書いたのはアメリカが建国して60年ほどのことである。
その時点でトクヴィルはよくデモクラシーの本質を見抜いたと思う。
有能で有徳だが、「民衆の利害と相反する」政策を行う統治者よりは、さして有能でも有徳でもないが、「民衆と利害を共にする」統治者の方が好ましい。「賢い統治者」よりは「身の丈にあった統治者」の方が好ましい。
それがデモクラシーの公理である。
-内田樹
橋本治さんは先般、アートマネジメントの学生たちのためにインターンシップの心得をうかがったところ、「現場に入ったら、まずゴミを拾いなさい」と即答された。
「プロデューサーの仕事はゴミを拾うことです。全部が見えている人間にしかゴミは拾えないのだから」とさらに深遠な言葉を続けられたのである。
内田樹
私たちの社会がこの20年で失ったのは「隣人と共生する能力」と「私の理解も共感も絶した超越的境位についての畏敬と想像力」である。
「愛神愛隣」というのは、そのことだと私は理解している。
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Someday my prince will come というようなお題目を唱えているうちは子どもである。
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。
こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。
それは短見というものである。
よく考えて欲しい。
どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。
だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。
自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。
配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。
それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。
だから、「誰とでも結婚できる」というのは、言葉は浮ついているが、実際にはかなり複雑な人間的資質なのである。
それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し、同時に、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがぬ決断を要求する。
いまの人々がなかなか結婚できないのは、第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用していないからであり、第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されていることを実は信じていないからである。
相手が信じられないから結婚できないのではなく、自分を信じていないから結婚できないのである。
というような話をする。
内田樹
original: http://blog.tatsuru.com/2009/04/09_1010.php
original: http://blog.tatsuru.com/2009/04/05_0820.php
「電子図書館の光と影」というタイトルで、ネット上で書籍の閲覧が可能になった場合のプラスとマイナスを論じている。
プラスというのは、これまでそれを所蔵している図書館まで足を運ばなければ閲覧できなかった本でも、稀覯本も、紙の劣化が著しく一般読者には閲読不可能であった本でも、電子データ化されれば誰でも閲覧できるようになることである。
アクセシビリティは飛躍的に向上する。
それは間違いなく、私たちの知的アクティヴィティをおおきく活性化してくれるはずである。
マイナスというのは要するに「本が売れなくなる」ということに尽くされる。
そんなことをすると地方図書館が図書の買い控えをするようになるのではないかとこのパンフレットの書き手は心配している。
「新刊書がただちにデジタル・アーカイブされ(画像として保存されるということです)、その画像をインターネットで送信して、家庭のパソコンで見ることができれば、本を買う必要がまったくなくなることは間違いありません。
大変便利な時代になったという気もしますが、そうすると文芸家はどこから収入を得ればいいのかという大きな問題が生じます。
紙の本の印税によって生計を立てるという従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っているのかも知れません。」(「文藝著作権通信」、11号、NPO日本文藝著作権センター、2009年、3月)
そうだと思う。
「従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っている」と私も思う。
鉄道が電化されれば蒸気機関車が不要になるように、橋がかかれば渡し船が不要になるように、テクノロジーの進歩はその代償として必ず「それまで存在した仕事」を奪う。
「紙の本の印税だけによって生計を立てる」という生き方はこのあとかなりむずかしくなるだろう(今でも十分にむずかしいが)。
だが、それは圧倒的な利便性を提供するテクノロジーを導入することの代償として受け容れざるを得ないのではないか。
「音楽だけで生計を立てる」こと「芝居で生計を立てること」を望んでいる人は今もたくさんいるが、ほとんどの人はそれを実現できていない。
「食えないなら止める」という人は止めて、「食えなくてもやる」という人だけが残ってゲームを続ける。
文芸家もそれと同じだろう。
それに、著作権者の相当数は「それで食っている」専門家ではなく、著作権の継承者である。
ご自身の本業は他にあって、「紙の本の印税だけで生計を立て」ているわけではない。
もし、自分は何も働かず、親族の残した著作権からの収益だけで暮らしている人がいたとして、その既得権がそれほど優先的に配慮されるべきものだと私は思わない。
というような私の主張を想定してかもしれないけれど、パンフレットには次のような文言があった。
「大学研究者の中には、著作権そのものへの意識が希薄な人々が多いことも、問題を拡散させる一つの原因になっています。大学教授などの研究者は、大学から給料と研究費を貰っていて、それだけで生活も研究もできます。
たまに本を出してもそこから利益を得るのではなく、むしろ多くの人々に読んでもらえればうれしいという発想しかありません。
他の研究者が引用したり言及したりしてくれると、それが研究者としての実績にもなるので、自分の著作や論文がネットで検索できるのは大歓迎ということになります。」
これは私のことを書いているのか・・・という気がするのは別に私の被害妄想ではなく、この問題について先日東京新聞が記事を書いたとき、「著作権を守れ」側を代表して三田誠広日本文藝家協会副理事長が、「パブリックドメイン」側を代表して私がコメントを寄せていたからである。
私は決して「著作権への意識が希薄」ではないと思う。どちらかというと、そのことに敏感である。だからこそ、著作権の管理を協会に委ねず、自分でしているのである。
ご存じのように、私はネット上で公開した自分のテクストについては「著作権放棄」を宣言している。
私の書いたことをそのままご自分の名前で発表していただいて、原稿料なり印税収入なりを得られても結構ですと宣言しているのである(まだ試みた人はおられないが)。
それは私にとって書くことの目的が生計を立てるではなく、一人でも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうことだからである。
もし私の書いていることの中にわずかなりとも世界の成り立ちや人間のあり方についての掬すべき知見が含まれているなら、それについて私が「これは私のものだ」と著作権を言い立て、「勝手に使うな」というのはことの筋目が違っているだろう。
それに私が「大学教授」であるのもあと2年のことである。
その後はもう給料も研究費ももらえない。
でも、たぶんその後も私は研究を続けるだろうし、著作も書き続けるだろう(たぶん今よりハイペースで)。
それは私は中学生のときから一貫して、「一人でも多くの読者に書いたことを読んで欲しい」と思ってきたからである。
職業が変わったくらいで、このマインドは変わらない。
問題は大学教授であるか専業作家であるかという「立場の違い」ではなくて、「マインドの違い」だと思う。
著作権からの収益が確保されないなら、一切テクストの公開を許さないという人はそうされればよいと思う。
それによってその人のテクストへのアクセスが相対的に困難になり、その人の才能や知見が私たちの共有財産となる可能性も損なわれても、そんなことは著作権保護に比べれば副次的なことにすぎないというなら、仕方がない。
だが、何度も書いているように、私たちは全員が「無償のテクストを読む」というところから長い読者人生をスタートする。
これに例外はない。
誰かがどこかで買ってきて、もののはずみで私の手元に届いた「無償のテクスト」を読むところから始めて、私たちは「有償のテクスト」を蔵書として私有する読者に育ってゆく。
書籍を購入して、私有し、書架に並べたいという欲望はリテラシーのある読者にしか生じないし、リテラシーは膨大な量の「無償のテクスト」を読み散らす経験を通じてしか育たない。
この点について有効な反証が提示されない限り、私は「有償のテクスト」が生き残るために「無償のテクスト」へのアクセスが容易になることが必ず不利に働くという考え方に同意できないのである。
私たちが無償で読めるテクストを選好するのは、それが「膨大な量の読書」を可能にしてくれるからである。
なぜ私たちが「膨大な量の読書」を望むかといえば、それだけが高いリテラシーを涵養する唯一の方法だからである。
そして高いリテラシーを涵養することを願うのはそれによって読書から無限の快楽を引き出すことが可能になるからである。
だとすれば、無償で読めるテクストが量的に増大することは、リテラシーの高い読者を生み出すことに資することはあっても、それを妨げることになるはずはない。
「テクストがリーダブルであるか否かを判定できる目の肥えた読者」が増えることにどうして著作権者たちは反対するのか?
それを説明できる合理的な根拠を私は一つしか思いつかないが、それを言うと角が立つので言わない。
内田樹
「人はその消費生活を通じて自己実現する」という80年代から私たちの社会を支配していたイデオロギーは少なくとも20歳の女性たちの間では急速に力を失いつつある。
「お金さえあれば自己実現できる」「自己実現とは要するにお金の使い方のことである」というイデオロギーが優勢でありえるのは、「右肩上がり」幻想が共有されている間だけである。
「お金がないから私は“本来の私”であることができません」というエクスキューズはもちろんまだ私たちの社会のほとんど全域で通用している。
その現実認識には「だからお金をもっとください」という遂行的言明が続く。
その前段にあるのは、「私たちの不幸のほとんどすべては『金がない』ということに起因しているから、金さえあれば、私たちは幸福になれる」という「金の全能」イデオロギーである。
このイデオロギーにもっとも深く毒されているのはマスメディアである。
メディアはあらゆる機会に(コンテンツを通じて、CMを通じて)視聴者に「もっともっと金を使え」というメッセージを送り届け、その一方で非正規労働者や失職者がどれほど絶望的な状況であるかをうるさくアナウンスして「消費行動が自由にできないと人間はこんなに不幸になるんですよ」と視聴者を脅しつけている。
「金の全能」をマスメディアはあるときは「セレブ」の豪奢な生活を紹介することで、あるときは「失職者」の絶望的困窮を紹介することで繰り返し視聴者に刷り込んでいる。
そして、メディアの当事者たちは自分たちがそのようなイデオロギー装置の宣布者であることについての「病識」がない。
けれども、若い女性たちはそろそろこのイデオロギーの瀰漫に対しての「嫌厭感」を持ち始めている。
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彼女たちは「自分より豊かな人たち」に向かって「あなたの持っているものを私に与えよ」と言うのを止めて、「私より貧しい人たち」に「私は何を与えることができるか」を問う方向にシフトしている。
私はこのシフトを健全だと思う。
「自分が所有したいのだけれど所有できていないもの」のリスト作るより、「自分がすでに豊かに所有しているので、他者に分ち与えることのできるもの」のリストを作る方が心身の健康にはずっとよいことである。
「不幸のリスト」はいくらでも長いものにできるが、「幸福のリスト」もその気になればずいぶん長いものになる。
自分の不幸を数え上げることを止めて、自分に「まだ残っているもの」をチェックする仕事に切り替えるということは、実は「危機対応」である。
震災のとき、「自分が失ったもの」を数え上げ、それを「返せ」と言い立てる人たちと、「自分にまだ残っているもの」を数え上げ、それをどれくらい有効利用できるかを考えた人に被災者たちはわかれた。
危機を生き延び、すみやかにそのダメージから回復することができたのはもちろん後者である。
危機のときに「失ったもののリスト」を作る人間には残念ながら未来はない。
-内田樹
original: http://blog.tatsuru.com/2008/12/06_0911.php
original: http://blog.tatsuru.com/2008/11/16_0928.php
大学生の「学力低下」というのは印象的にはたしかにそのとおりである。
けれども、これは、彼らの知的関心が手持ちの大学の教育プログラムや教育言語ではうまく掬い取れない活動に向けられているせいである。
「世代の知性の総量というのは変わらない。それが向かう先が変わるだけである」(@村上春樹)という考えに私も同意する。
「授業時数を増やせば学力が上がる」と文科省のお役人たちは考えているらしい。だから、初等中等教育でも「週6日制に戻す」というような動きになっている。
けれども、いまからはっきり予告しておくけれど、授業時数を増やしても学力は上がらない。
彼らの学力が低下しているのは、彼らが「どれほど費用対効果のよい仕方で学校教育という“苦役”の対価として教育商品を手に入れるか」という「賢い消費者」になるためにそのある限りの知力を投入しているからである。
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子どもたちの学力が低下した理由は「この世でたいせつなものは『学力そのもの』ではなく、『学力をもつことでもたらされる利益』である」という考え方が支配的になったからである。
学力なんかあってもなくてもどうでもよろしい。
学力があることによって得られるとされている利益(競争における相対優位、威信、権力、財貨、情報、などなど)が得られるなら「何をしてもよい」というのが私たちの時代の風儀である。
子どもたちは「いかに少ない努力で多くの報酬を手に入れるか」ということにその知力の限りを尽くしている。
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現に、超難関校といわれる大学を出た若者と話していて、あまりにものを知らないので、びっくりすることがよくある。
教養がないというレベルにとどまらず、専門課程で学んだはずの知識さえおぼつかない。
どうして、そんなにものを知らないのかと訊ねると、破顔一笑して、「いやあ、大学では全然勉強しなかったですから」と誇らしげな様子をする。
どうして、勉強しなかったことをこれほど自慢するかというと、それでも超一流校の学位記を獲得した自分のふるまいが「クレバー」だと思っているからである。
だって、わずかな苦役で大きな報酬を手に入れたわけだからである。
「ぜんぜん勉強しないで東大出ちゃいました」というのは、キーボードをちゃかちゃか叩いただけで1分間で数億円稼いだとか、1000円でベンツを買ったとか、それに類する「スーパー・クレバーな商品取引」なのである。
消費者マインドに立てばそういうことになる。
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-内田樹
「言論の自由」というのは、「自分の持論の当否について検証できるのは私ではなく他者である」という「場への信認」のことである。
『大人のいない国』でしつこく書いたことだけれど、「言論の自由」とは何のことか、もう一度繰り返す。
メッセージはその正否真偽を審問される場に差し出されるとき、「その正否真偽を審問する場」の威信を認めなければならない。それを認めない人間はそもそも「言論の自由」の請求権がないと私は思う。
「私は誰がどう思おうと言いたいことを言う。この世界に私の意見に同意する人間が一人もいなくても、私はそれによって少しも傷つかない。私の語ることの真理性は、それに同意する人間が一人もいなくても、少しも揺るがないからである」と主張する人間がいたとする。彼は果たして「言論の自由」を請求するだろうか。私はしないと思う。「私は誰の承認も得なくても、つねに正しい」と主張する人がその上なお「言論の自由」を求めるのは、「すべての貨幣は幻想であり、無価値である」と主張する人間が、その主張を記した自著の印税支払いをうるさく求めるのと同じように背理的である。というのも、「言論の自由」とはまさに「他者に承認される機会を求めること」に他ならないからである。
「言論の自由」は、自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものか忘却に任されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名することである。自分が発する言葉は、他者に聴き取られなくても、同意されなくても、信認されなくても、その意味と価値をいささかも減じないと言い張る人間が請求しているのは「言論の自由」ではなく、「教化する自由、洗脳する自由、他者の意見を封殺する自由」である。彼は「自由な言論が行き交う場」の威信を構築するために汗をかく気はない。なぜなら、彼の言葉は他者たちによる吟味の場に差し出されるに先立って、すでに真理であることが確定しているからである。もし、「言論の正否真偽を審問する場の成立に先立ってすでに真理である言葉」が存在しうるというのなら、「自由な言論の場」に存在理由はない。その場合には、「言論の自由」は真理を語る人間だけに許され、それ以外のすべての人間は「同意」か「沈黙」のいずれかを選択すべきであろう。もし、真理が「言論の自由に行き交う場」とは違う審級で、その場に差し出されるに先んじて、すでに決定されうるなら、そういうことになる。
言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論の行き交う場」そのものであるという、場の威信に対する信用供与のことである。言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信認抜きに「言論の自由」はありえない。「聴き手が同意しようとしまいと、私は言いたいことを言う」という態度に、場の威信と場の判定力対する信認を認めることはむずかしい。
「言論の自由」を自説を公開することの根拠とする人間に何より求められるのは「情理を尽くして説得する」という構えだろうと私は思う。
自説に反対するであろう人たちとも「ここだけ」は共有できるというプラットフォームを探り当て、「とりあえず、ここまではよろしいですね」という同意をどれほど迂遠であろうとも、一歩一歩積み重ねて、そうやってはじめて「説得」という営みは成り立つ。
だから、「説得」とは「私は正しい、おまえは間違っている」という話型を取らない。
「私も永遠の真理を知らず、あなたも知らない。だから、私たちはたぶんどちらも少しずつ間違っており、少しずつ正しい。だとすれば、私の間違いをあなたの
正しさによって補正し、あなたの間違いを私の正しさによって補正してはどうだろうか」というのが「言論の自由」が要求するもっとも基本的な「ことばづか
い」であると私は考えている。
誤解している人が多いが、「言論の自由」に基づいて私たちが要求できるのは「真理を語る権利」ではなく、「間違ったことを言っても罰されない権利」である。
その権利の請求の前件は「私は間違ったことを言っている可能性がある」という一項に黒々と同意署名することである。
だから、「私は正しく、おまえは間違っている」という前提から出発する人は「言論の自由」の名において語る権利を請求できないだろうと私は思う。
彼は「絶対的真理」の擁護者なのであるから「絶対的真理」の名において自説を語るべきだろう。
それがことの筋目ではないのか。
-内田樹
original: http://blog.tatsuru.com/2008/11/12_1312.php
プロ=専門家というものがしばしば陥るピットフォールは、
素人が知らない裏事情に通じているといったことや、
一次資料や現場にあたってきたという経験の蓄積は、
事実を説明するためには有効であるが、
状況の判断や、将来に対する推論に対しては、
素人に卓越しているということをなんら意味していない
ということに対する自覚の欠如である。
専門家は、その専門性ゆえにしばしば
固定観念に囚われたり、知見によるバイアスによって
判断を誤ることがあるのである。
専門性と判断力はほとんど、無関係だと思ったほうがよい。
-内田樹