44 posts tagged “内田樹”
若い人は多く誤解しているが、個性というのは内発的なものではない。
「呼ばれる」ことである。
「自分は何をしたいのか?」という内発的な問いにこだわっている限り、人はground level から抜け出すことができない。
自分が誰であるかを知るためには、自分から離脱して、上空から自分を俯瞰することが必要なのである。
original: http://blog.tatsuru.com/2009/12/05_0859.php
成熟するとは要するに「さまざまな価値や意味を考量できる多様なものさしを使いこなせる」ということである。
そのような「複数のものさしの使いこなし」は「単一のものさし」をあてがって万象を考量しようとする「オレ様」的態度とはついに無縁のものである。
子どもは最初一つの「ものさし」しか持っていない。
生理的に快か不快か、それだけである。
それ以外の「ものさし」はひとつずつ自作するしかない。
現実原則についてフロイトが言ったように、「短期的には生理的に不快であるが、少し長いスパンで考えると、安定的に高い快をもたらすもの」を考量できるようになると「次のものさし」が手に入る。
それを空間的・時間的に拡大してゆく。
そして、やがて「自分にとっては不快であるが、同時的に存在する多くの人々に安定的に高い快をもたらすもの」や「自分が死んだあとに未来の人々に安定的に高い快をもたらすもの」を「自分の快」に算入できるようになる。
それが「だいぶ大人になった」ということである。
教育は子どもたちの自己利益の拡大のための機会ではない。
それは子どもたちを成熟させるための機会なのである。
original: http://blog.tatsuru.com/2009/11/28_1003.php
-内田樹
大学院のゼミでは「シンプル族」とか「カルチュラル・クリエイティブス」とか「ボボス」とか「ロハス」とかいう新しい消費者マーケットの動向についての発表がある。
新しい消費動向のキーワードは「ギルティフリー」と「サステナブル」。
なるほど。
悪いことではないが、それでも「どのような商品を選択するかによって、消費者のアイデンティティが基礎づけられる」という象徴価値イデオロギーそのものは手つかずのまま生き延びている。
今さらの説明だが、商品の価値は三つの形態をとる。
第一のものは使用価値。
第二のものは交換価値。
第三のものが象徴価値。
これは「所有者の所属階層を指示する記号的機能をもつ」商品の価値である。
後期資本主義社会では、市場を行き来する商品の90%は使用価値でも交換価値でもなく、象徴価値に基づいて値付けされている。
象徴価値とは平たく言えば「アイデンティティ指示機能」のことである。
どういう商品を持っていると、所有者が「何もの」であるかがわかる。
1980年代から以降の経済活動はほとんどがこの「アイデンティティ基礎づけのための消費」に依存するようになった。
「名刺代わり」「表札代わり」に消費行動を行う圧倒的な数の消費者のニーズに依存して、後期資本主義社会は栄えたのである。
環境破壊と資源枯渇と先進国における人口減と金融ゲームの破綻によって、「資本主義市場経済の弔鐘」が耳障りな音を立てて鳴りだしても、消費活動を「アイデンティティ基礎づけ」的なものとして進めようとする諸君の頭のつくりは急には変わらない。
アイデンティティというのは幻想だからである。
消費主体が生理的欲求や物質的必要に基づいて消費している限り、人間の消費活動には限界がある。
どれほど卑しい人間でも、1日5食6食食べ続けることはできないし、服だって一度に一着しか着られない。
人間の身体が消費活動を限界づける。
しかし、消費主体が「自分は何ものか?」という幻想構築のために消費するようになれば、消費活動には原理的に限界がない。
ギルティフリーにしてもサステナブルにしても、それが消費主体のアイデンティティ構築にかかわる限り、「これで終わり」ということはない。 - 内田樹
original:http://blog.tatsuru.com/2009/11/25_1159.php
すべての社会はそれぞれの仕方で「権力の交替」のためのシステムを設計図に書き込んでいる。
「交替させなければならない」権力者は、その定義からして「バカ」であるか「邪悪」であるか、あるいはその両方である。
したがって、彼らは自分たちが「交替させられるべきである」ということに気づいて、進んで身を引くということがない。
それゆえ、持続可能な社会集団であるためには、すべての集団は「バカ」であったり「邪悪」であったりする権力者を、本人たちからのどのような頑強な抵抗があっても権力中枢から排除できるような「見えざる権力交替システム」を内蔵させている。
そのような「見えないシステム」を組み込み忘れた社会集団は長くは生き延びられない。
「隙がない」というのは、べつにがちがちにガードを固めているということではなくて、「次にどういう動線を選択するか予測できない」ということである。
だから、「次にどういう動線を選択するか予測が可能である」状態を「隙がある」と言うのである。
言い換えると、システムが局所的につよく均質化すると、それがシステム全体の「隙」になり、そこからシステム・クラッシュが始まるということである。
-内田樹
original: http://blog.tatsuru.com/2009/11/24_1159.php
original: http://blog.tatsuru.com/2009/11/06_1854.php
人間が知的ポテンシャルを一気に向上させるのは、「自分が何をしているのかよくわかっている」ときではなく、「自分が何をしているのか、よくわからない(でも、もうすこしでわかりそう)」ときである。
学校教育とはこの「自分が何をしているのか、よくわからないけれど、なんだかもう少しでわかりそう」という状態を長期にわたって継続させることをめざして制度設計されている。
学校をめぐる「儀礼」の多くはその「わからないけど、わかりそう」というグレーゾーンに子どもをとどめおくために、きわめて巧妙に構築されているのである。
学校制度を構築している無数の「よく意味のわからないきまりごと」については、これを軽々に「合理的」判断に基づいて改廃すべきではない。
たとえば学校というのは通常「装飾性のつよい、ことごとしい建築物」であるが、これはそこが「非現実的なことがなされる場」であることを子どもたちに印象づけるための仕掛けである。
養老先生によれば、ヨーロッパにゆくと、どこの街でもいちばん豪奢なのは教会と劇場だそうである。
「そこが嘘が語られるところだから」だ、というのが養老先生のご意見である。
「この中で語られることは現実の話じゃありませんよ」ということを外見の過剰な装飾性によってあらかじめ「おことわり」しておくのである。
-内田樹
「大人」とは人間の社会的活動の意味を考量するときに「それをするといくらになるの?」というような「子どもじみた」問いを発しない人間のことである。
なぜ、そのことをしなければならないのか、その理由を「それがもたらす利益」によって実定的に言うことはできないが「どうしても、そのことをしておかない
と、
『よくないこと』が起こりそうな気がする」という直感に基づいて、誰にも命じられず、誰にも責任の分担を求めず、固有名において「そのこと」を敢行できる
人間、それが「大人」である。 - 内田樹
original: http://blog.tatsuru.com/2009/09/18_1754.php
それは「デモクラシーにおいて、公務員が他より権力を悪用するとしても、権力をもつ期間は一般に長くはない」からである。(アレクシス・ド・トクヴィル、 「アメリカにおけるデモクラシーについて」、岩永健吉郎訳、『中央公論世界の名著33』、中央公論社、1970年、456頁)
デモクラシーが前提にする人間観は、人間はたいていの場合、権力を長くもつと「悪いこと」をするという経験則である。
だから、統治者を定期的に交替させるルールが必要である。
「疑いもなく、支配者に徳と才とが備わっていることは、国民の福祉にとって重要である。しかし、それにもまして重要なのは、被支配者大衆に反する利害をも
たぬことである。もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんど用がなく、才能は有害になろうからである。」(457頁)
トクヴィルがこの文章を書いたのはアメリカが建国して60年ほどのことである。
その時点でトクヴィルはよくデモクラシーの本質を見抜いたと思う。
有能で有徳だが、「民衆の利害と相反する」政策を行う統治者よりは、さして有能でも有徳でもないが、「民衆と利害を共にする」統治者の方が好ましい。「賢い統治者」よりは「身の丈にあった統治者」の方が好ましい。
それがデモクラシーの公理である。
-内田樹
橋本治さんは先般、アートマネジメントの学生たちのためにインターンシップの心得をうかがったところ、「現場に入ったら、まずゴミを拾いなさい」と即答された。
「プロデューサーの仕事はゴミを拾うことです。全部が見えている人間にしかゴミは拾えないのだから」とさらに深遠な言葉を続けられたのである。
内田樹
私たちの社会がこの20年で失ったのは「隣人と共生する能力」と「私の理解も共感も絶した超越的境位についての畏敬と想像力」である。
「愛神愛隣」というのは、そのことだと私は理解している。
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Someday my prince will come というようなお題目を唱えているうちは子どもである。
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。
こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。
それは短見というものである。
よく考えて欲しい。
どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。
だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。
自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。
配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。
それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。
だから、「誰とでも結婚できる」というのは、言葉は浮ついているが、実際にはかなり複雑な人間的資質なのである。
それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し、同時に、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがぬ決断を要求する。
いまの人々がなかなか結婚できないのは、第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用していないからであり、第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されていることを実は信じていないからである。
相手が信じられないから結婚できないのではなく、自分を信じていないから結婚できないのである。
というような話をする。
内田樹
original: http://blog.tatsuru.com/2009/04/09_1010.php
original: http://blog.tatsuru.com/2009/04/05_0820.php
「電子図書館の光と影」というタイトルで、ネット上で書籍の閲覧が可能になった場合のプラスとマイナスを論じている。
プラスというのは、これまでそれを所蔵している図書館まで足を運ばなければ閲覧できなかった本でも、稀覯本も、紙の劣化が著しく一般読者には閲読不可能であった本でも、電子データ化されれば誰でも閲覧できるようになることである。
アクセシビリティは飛躍的に向上する。
それは間違いなく、私たちの知的アクティヴィティをおおきく活性化してくれるはずである。
マイナスというのは要するに「本が売れなくなる」ということに尽くされる。
そんなことをすると地方図書館が図書の買い控えをするようになるのではないかとこのパンフレットの書き手は心配している。
「新刊書がただちにデジタル・アーカイブされ(画像として保存されるということです)、その画像をインターネットで送信して、家庭のパソコンで見ることができれば、本を買う必要がまったくなくなることは間違いありません。
大変便利な時代になったという気もしますが、そうすると文芸家はどこから収入を得ればいいのかという大きな問題が生じます。
紙の本の印税によって生計を立てるという従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っているのかも知れません。」(「文藝著作権通信」、11号、NPO日本文藝著作権センター、2009年、3月)
そうだと思う。
「従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っている」と私も思う。
鉄道が電化されれば蒸気機関車が不要になるように、橋がかかれば渡し船が不要になるように、テクノロジーの進歩はその代償として必ず「それまで存在した仕事」を奪う。
「紙の本の印税だけによって生計を立てる」という生き方はこのあとかなりむずかしくなるだろう(今でも十分にむずかしいが)。
だが、それは圧倒的な利便性を提供するテクノロジーを導入することの代償として受け容れざるを得ないのではないか。
「音楽だけで生計を立てる」こと「芝居で生計を立てること」を望んでいる人は今もたくさんいるが、ほとんどの人はそれを実現できていない。
「食えないなら止める」という人は止めて、「食えなくてもやる」という人だけが残ってゲームを続ける。
文芸家もそれと同じだろう。
それに、著作権者の相当数は「それで食っている」専門家ではなく、著作権の継承者である。
ご自身の本業は他にあって、「紙の本の印税だけで生計を立て」ているわけではない。
もし、自分は何も働かず、親族の残した著作権からの収益だけで暮らしている人がいたとして、その既得権がそれほど優先的に配慮されるべきものだと私は思わない。
というような私の主張を想定してかもしれないけれど、パンフレットには次のような文言があった。
「大学研究者の中には、著作権そのものへの意識が希薄な人々が多いことも、問題を拡散させる一つの原因になっています。大学教授などの研究者は、大学から給料と研究費を貰っていて、それだけで生活も研究もできます。
たまに本を出してもそこから利益を得るのではなく、むしろ多くの人々に読んでもらえればうれしいという発想しかありません。
他の研究者が引用したり言及したりしてくれると、それが研究者としての実績にもなるので、自分の著作や論文がネットで検索できるのは大歓迎ということになります。」
これは私のことを書いているのか・・・という気がするのは別に私の被害妄想ではなく、この問題について先日東京新聞が記事を書いたとき、「著作権を守れ」側を代表して三田誠広日本文藝家協会副理事長が、「パブリックドメイン」側を代表して私がコメントを寄せていたからである。
私は決して「著作権への意識が希薄」ではないと思う。どちらかというと、そのことに敏感である。だからこそ、著作権の管理を協会に委ねず、自分でしているのである。
ご存じのように、私はネット上で公開した自分のテクストについては「著作権放棄」を宣言している。
私の書いたことをそのままご自分の名前で発表していただいて、原稿料なり印税収入なりを得られても結構ですと宣言しているのである(まだ試みた人はおられないが)。
それは私にとって書くことの目的が生計を立てるではなく、一人でも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうことだからである。
もし私の書いていることの中にわずかなりとも世界の成り立ちや人間のあり方についての掬すべき知見が含まれているなら、それについて私が「これは私のものだ」と著作権を言い立て、「勝手に使うな」というのはことの筋目が違っているだろう。
それに私が「大学教授」であるのもあと2年のことである。
その後はもう給料も研究費ももらえない。
でも、たぶんその後も私は研究を続けるだろうし、著作も書き続けるだろう(たぶん今よりハイペースで)。
それは私は中学生のときから一貫して、「一人でも多くの読者に書いたことを読んで欲しい」と思ってきたからである。
職業が変わったくらいで、このマインドは変わらない。
問題は大学教授であるか専業作家であるかという「立場の違い」ではなくて、「マインドの違い」だと思う。
著作権からの収益が確保されないなら、一切テクストの公開を許さないという人はそうされればよいと思う。
それによってその人のテクストへのアクセスが相対的に困難になり、その人の才能や知見が私たちの共有財産となる可能性も損なわれても、そんなことは著作権保護に比べれば副次的なことにすぎないというなら、仕方がない。
だが、何度も書いているように、私たちは全員が「無償のテクストを読む」というところから長い読者人生をスタートする。
これに例外はない。
誰かがどこかで買ってきて、もののはずみで私の手元に届いた「無償のテクスト」を読むところから始めて、私たちは「有償のテクスト」を蔵書として私有する読者に育ってゆく。
書籍を購入して、私有し、書架に並べたいという欲望はリテラシーのある読者にしか生じないし、リテラシーは膨大な量の「無償のテクスト」を読み散らす経験を通じてしか育たない。
この点について有効な反証が提示されない限り、私は「有償のテクスト」が生き残るために「無償のテクスト」へのアクセスが容易になることが必ず不利に働くという考え方に同意できないのである。
私たちが無償で読めるテクストを選好するのは、それが「膨大な量の読書」を可能にしてくれるからである。
なぜ私たちが「膨大な量の読書」を望むかといえば、それだけが高いリテラシーを涵養する唯一の方法だからである。
そして高いリテラシーを涵養することを願うのはそれによって読書から無限の快楽を引き出すことが可能になるからである。
だとすれば、無償で読めるテクストが量的に増大することは、リテラシーの高い読者を生み出すことに資することはあっても、それを妨げることになるはずはない。
「テクストがリーダブルであるか否かを判定できる目の肥えた読者」が増えることにどうして著作権者たちは反対するのか?
それを説明できる合理的な根拠を私は一つしか思いつかないが、それを言うと角が立つので言わない。
内田樹