成熟するとは要するに「さまざまな価値や意味を考量できる多様なものさしを使いこなせる」ということである。
そのような「複数のものさしの使いこなし」は「単一のものさし」をあてがって万象を考量しようとする「オレ様」的態度とはついに無縁のものである。
子どもは最初一つの「ものさし」しか持っていない。
生理的に快か不快か、それだけである。
それ以外の「ものさし」はひとつずつ自作するしかない。
現実原則についてフロイトが言ったように、「短期的には生理的に不快であるが、少し長いスパンで考えると、安定的に高い快をもたらすもの」を考量できるようになると「次のものさし」が手に入る。
それを空間的・時間的に拡大してゆく。
そして、やがて「自分にとっては不快であるが、同時的に存在する多くの人々に安定的に高い快をもたらすもの」や「自分が死んだあとに未来の人々に安定的に高い快をもたらすもの」を「自分の快」に算入できるようになる。
それが「だいぶ大人になった」ということである。
教育は子どもたちの自己利益の拡大のための機会ではない。
それは子どもたちを成熟させるための機会なのである。
original: http://blog.tatsuru.com/2009/11/28_1003.php
-内田樹
大学院のゼミでは「シンプル族」とか「カルチュラル・クリエイティブス」とか「ボボス」とか「ロハス」とかいう新しい消費者マーケットの動向についての発表がある。
新しい消費動向のキーワードは「ギルティフリー」と「サステナブル」。
なるほど。
悪いことではないが、それでも「どのような商品を選択するかによって、消費者のアイデンティティが基礎づけられる」という象徴価値イデオロギーそのものは手つかずのまま生き延びている。
今さらの説明だが、商品の価値は三つの形態をとる。
第一のものは使用価値。
第二のものは交換価値。
第三のものが象徴価値。
これは「所有者の所属階層を指示する記号的機能をもつ」商品の価値である。
後期資本主義社会では、市場を行き来する商品の90%は使用価値でも交換価値でもなく、象徴価値に基づいて値付けされている。
象徴価値とは平たく言えば「アイデンティティ指示機能」のことである。
どういう商品を持っていると、所有者が「何もの」であるかがわかる。
1980年代から以降の経済活動はほとんどがこの「アイデンティティ基礎づけのための消費」に依存するようになった。
「名刺代わり」「表札代わり」に消費行動を行う圧倒的な数の消費者のニーズに依存して、後期資本主義社会は栄えたのである。
環境破壊と資源枯渇と先進国における人口減と金融ゲームの破綻によって、「資本主義市場経済の弔鐘」が耳障りな音を立てて鳴りだしても、消費活動を「アイデンティティ基礎づけ」的なものとして進めようとする諸君の頭のつくりは急には変わらない。
アイデンティティというのは幻想だからである。
消費主体が生理的欲求や物質的必要に基づいて消費している限り、人間の消費活動には限界がある。
どれほど卑しい人間でも、1日5食6食食べ続けることはできないし、服だって一度に一着しか着られない。
人間の身体が消費活動を限界づける。
しかし、消費主体が「自分は何ものか?」という幻想構築のために消費するようになれば、消費活動には原理的に限界がない。
ギルティフリーにしてもサステナブルにしても、それが消費主体のアイデンティティ構築にかかわる限り、「これで終わり」ということはない。 - 内田樹
original:http://blog.tatsuru.com/2009/11/25_1159.php
すべての社会はそれぞれの仕方で「権力の交替」のためのシステムを設計図に書き込んでいる。
「交替させなければならない」権力者は、その定義からして「バカ」であるか「邪悪」であるか、あるいはその両方である。
したがって、彼らは自分たちが「交替させられるべきである」ということに気づいて、進んで身を引くということがない。
それゆえ、持続可能な社会集団であるためには、すべての集団は「バカ」であったり「邪悪」であったりする権力者を、本人たちからのどのような頑強な抵抗があっても権力中枢から排除できるような「見えざる権力交替システム」を内蔵させている。
そのような「見えないシステム」を組み込み忘れた社会集団は長くは生き延びられない。
「隙がない」というのは、べつにがちがちにガードを固めているということではなくて、「次にどういう動線を選択するか予測できない」ということである。
だから、「次にどういう動線を選択するか予測が可能である」状態を「隙がある」と言うのである。
言い換えると、システムが局所的につよく均質化すると、それがシステム全体の「隙」になり、そこからシステム・クラッシュが始まるということである。
-内田樹
original: http://blog.tatsuru.com/2009/11/24_1159.php
つまり「自分」というものを問題にしない世界なんです。したがって、これだけの修行をしたから悟りはこれだけ返ってくるはずだ、というバーター的な考え方もさせない。この人間としての当たり前の考え方のフレームを最初からたたき切る。
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考えるということの根底に触れることが、一つの重要なことなのかもしれない。人がものを考えるということの根底を一度バラすか、あるいはその意味をとことん問いつめるという作業が、禅の修行中、特に初期段階で方法論的に組み込まれているんです。
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「枯木死灰(こぼくしかい)」という言葉があります。枯れた木のように、冷えた灰のように、一切の思考を止め、世俗から離れるという意味です。そうした態度こそ、修行の理想であると言われるのですが、私の考えはちょっと違って、「考えるのをやめろ」ではなく、人が考えるということの根底に「考えられないことがある」ということに気づくことが重要だと思うんです。それが「不立文字」や、道元禅師の言う「非思量」だろうと。思量するということは、おそらく人間の存在にとって根源的な問題です。ところが、その思量が可能になるのはなぜかというところまで下りると、尋常な方法ではいかない。ブッダの射程距離にはそれがあった。考えるということの限界、あるいは考えるということの根本的な意味まで分け入らなくてはいけない。仏教や禅が一番問題にしているのはそこです。
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成仏というのは要するに人間ではなくなるという話で、仏教の本質に人間性とかヒューマニズムはありません。なぜなら人間というものをトータルに見る視点というのが、その外の世界にしか存在しないからです。だから、現実や人間のありようを丸ごと肯定する立場で仏教を語ると、全然違う話に変わってしまう。
仏教の「縁起」の思想は、日本的な和の思想とぶつかって、みんなで仲良くやりましょうみたいな話にすり替わり、「無我」の話は滅私奉公みたいな話にすり替わってしまった。我々が現実と考えているものは、ある一定の条件における思い込みでしか成立しないから、前提条件が外れると、すべては崩れさるという非常に冷たい考え方なんです。
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問題は情報以前に言葉です。情報で処理するのではなくて、我々はやっぱり言葉のありようを考えないといけない。要するに、言葉というのは自明なものでも透明なものでもないわけです。比して情報というのは、自明かつ透明でないと、そもそも役に立たない。ところが、言葉はもともと自明でも透明でもなく、力です。情報は飛んでいけばその役割を果たしますが、言葉はある種の力を生み出してしまいますからね。
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「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というヴィトゲンシュタインの有名なフレーズがあるじゃないですか。あれをお題目のように唱えている若者はいっぱいいる。問題はその先なんですよね。
語り得ないものに沈黙したら、それでは終わらない。次にどうするかを考える。道元禅師は、「仏向上事」、仏のさらに上を目指せ、悟りを捨ててまた悟れって言うんです。要するに歩みを絶対に止めない。それが彼の苦闘でもあった。悟りというのは、「同得」、つまり言葉であると道元はいいます。悟りに言葉は届かないと言い切ってしまったら、そこで終わり。もしその人が悟っているのだとしたら、言い続けるしか道はない。
しかしそれはとても苦しい。だからこそ、ブッダは生きていることは苦だと言った。仏教は苦しみがなくなるとか、苦しみが全くない世界に行けるという話じゃなくて、苦しくたって生きていけるようにする道を示すものです。
そこには矛盾と苦があって、それがないものは生命ではないんです。
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時代はいかに早く変わり、私たちは過去をどんなに簡単に忘れてしまうことだろう。子供の頃、親戚の人びとが集まると、お互いに畳に頭をつけて丁寧にお辞儀をしていた。祖父がキセルから灰を落としながら、「知らざあ言って聞かせやしょう」と詠じてみせた。時々、戦争の話が出た。今となっては夢のようなあの時代の人びとの完成の海から、小笠原さんは言葉を運んできてくれる。
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つまり「自分が自分である」という根拠が、座禅が深まるとすぐにばらけちゃう。考えてみれば、自意識が露わになるのは取り引きしているときか競争しているときでしょう。また、近代資本主義の社会は、取り引きと競争で成り立っているわけですから、自意識が勝ってくるのが当たり前。しかし座禅の最中に競争や取り引きは一切関係ないですからね。すると、そいういった自意識を公正するような条件はなくなるんです。
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結局、自己っていうのは作っていかなきゃいけないものなんですよ。どの条件でどう作るのか、そしてその条件を引き受けるのか引き受けないのかを決断しなければいけない。つまり自己というのは所与のものではなくて、メチエ(技術)でもって作り出さなきゃならない。
それでは、どのような自己を作っていくか。それは個人の決断によって作っていくしか、もう道はないと思うんです。もし仏教をそのメチエとして使うというんだったら、それないりの方法があります。道元禅師はそれは「自己をならう」と言った。それぞれにそれぞれの自己のならい方がある。自己は複数あって、非常に脆いものだということは、昔から仏教が言っていたことです。
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一回ばらして、もう一回自力で作り上げるっていうのが、仏教の修行なんです。ところが中には、それが悟りで真実だという人がいる。その先どうするのかは何も示されない。
禅に「一所不在」「行雲流水」という言葉があります。止まっちゃいけない。「無常」を掲げる仏教を深刻に捉えたとき、それは結論として言わざるを得ないことだと思うんです。永遠に終わりはない。悟ったらそれを捨てて、さらに上を目指す。前にも話しましたが「仏向上事」という強烈な概念があります。仏のさらにその上、成仏したらさらにその上を目指せということですが、単なる上昇志向というわけではなく、「悟った」「成仏した」で終わると概念になってしまうことを危惧したものです。「無常を生きる」のが仏教者の嘉幸だとしたら、立ち止まったらそれでおしまいです。
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丘で干上がっている人と漂流している人は、不安にとらわれることはあっても、自らを疑う必要がないという点で共通しています。常に疑い、先を読まなければいけないのが航海している人です。自由であるには、非常に強い負荷がかかる中で耐えていかなkちゃいけない。そして一番の問題は、自己を作ることが自由であることですね。
だから大変。無限の可能性があるわけだから。そして作ったらまた解体して。
固まってしまった自己というのはもう自己ではない。自己っていうのは運動ですからね。
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存在における原初的な喪失というのは、代償物では埋まらないと思うからです。「欠けたもの・失ったものを探す」というやり方では絶対に捉えられない。欠けた「もの」も無くなった「もの」もない。ただ「欠ける」んです。ただ「無くなる」んです。だから探しようがない。それを「何かが欠けた」と誤解すると、人はいろんなものをでっちあげてしまう。それが神や宗教、あるいは科学や経済や文化なのかもしれない。本当はただ欠けるだけなのに、欠けたということに対してそれを補おうとする力だけは常に働く。それが内部から力となって働いているとしか思えないんです。
欠けたものを埋めようとする指向性がある。脳の神経細胞にも、空白を埋めようとする指向性があります。
ところが、悲しいのは何が欠けたか絶対にわからないようにできていることです。「何か」が欠けるのではない。欠けることで成立しているのが人間の意識であり、存在なのでしょう。
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解脱なんかできっこない。なぜなら水源がないのに川は流れる。それが自己存在というものだからです。
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哲学者の森岡正博さんが代表作「無痛文明論」で、さまざまな場面で苦痛が取り除かれていく現代社会について批判的に論じていますが、苦というものが除外されていくことの危険が今日リアルにわかりましたね。苦は生きることの本質と結びついているから、それを取り除いたら結局生きていないことになる。
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いろいろな問題について考えるときーそれは科学者でも哲学者でもー、どのぐらいの思考の深さに至れるかということが、知識の量やロジックの強度で決まるものではない、ということです。そのことを最近つくづく実感するんです。そうではなくて、どのぐらい自分の内面についてメタ認識(注 自分の思考や行動を、客観的に把握し認識すること)ができていて、言語化できているかということに依存するのではないか。要するに意識や自我について語るとき、どのぐらいのセルフリフレクション(自己洞察)というか自己反省をしてきたかによって、ある理論やモデルの伸びしろが決まってしまうことを、どうも実感するんですね。
仏教では、その「自己反省」を「疑団」と呼びます。
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私は昔から、理解するとかわかるというのは、わからないことを隠すことだと思っています。むしろ「わからない」というのが考える前提だと思う。災難のように降りかかる、「明らかに重要だけど容易に答えが出ない問題」。これを抱えたままでいると、どんどん追い詰められていくでしょう。「疑団が破裂する」とよく言うのですが、疑団が大きくなったとき、もはや自分の意志でハンドリングできなくなってくる。この疑団が壊れたときにどうするかということが重要で、あらかじめ予測してどうこうしようというのとはちょっと違うんですよ。
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原始仏教の中で、ブッダがこう言うところがあるんですよ。
「世の中にはいろいろな考え方がある。この世はすべて因果で決まっている。運命で全部決まっていると。そういって私の考えを否定する人がいる。またある者は、絶対神がいて、これがすべてを決めていると、私の考え方を批判する。またある人間は、何もかも全部が偶然の産物であると。そう言って、私の考えを否定する人もいる」
しかしブッダは、いずれの考え方も否定するんです。なぜなら、こうした考え方は人が努力して精進することを否定しているからです。ブッダは自分のことを、業論者で行為論者で、精進論者だと言っています。つまり、彼にとって業や因果というのは、修行者として修行を続け、未来に向かって自分を投げ出すための根拠として必要だと言っているんです。ブッダが因果を説くのは、「あらかじめ因果によってものごとは決まっている」ということではなくて、人が努力し、未来に希望を持ち、自分が自分として立っていくために絶対必要な考え方だからというわけです。だから、因果を信じろと。
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やっぱり、根源的に自己の存在というのは投機的なんですよ。化粧もしかり、権力もしかり。仏教の縁起というのもまさにこのことだと思うんですよ。すべては関係性において存在する。
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「破錠しないでいたい」とか「安心できる居場所がほしい」ということを、自分で断念することから始めるしかないわけです。
つまりそれが生を、世界を引き受けることだと私は思うわけです。先ほどから私が、生きることよりも、生きることを引き受けることが決定的に大事だと言っているのは、生が破錠していても構わないと覚悟を決めちゃうことなんですよ。それがいいけどうかはわかりません。ただ、僕はそういう人に激しく共感するし、その決断を尊いと思う。このニュアンスがわかる人には一発でわかる。
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一番まずいのは、イデオロギーとか宗教が生を空虚にする場合があること。信じれば救われるというように、いわば生きることを質入れしちゃう。
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「脚下照顧」という言葉があるでしょう。その脚下にあるのは死だと思う。それを知っている人間だけが、自らの拠って立つ位置がわかると思うんです。それがわからなければ、その人間は生きることのリアリティを感じることはできない。生の強度は軽く薄いものになって、簡単に人生を質入れしてしまうことになる。もっと言うと簡単に騙される。物事を簡単に「わかっちゃう」人になる。
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私に言わせれば「泥になれる」のならまだしも、すでに泥だったらどうするのかが問題。自己や世界という存在は、そもそも無色透明で美しいものではない。
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安心立命というか安心して生きている人を見ると、何か勘違いしているんだろうなとしか思わない。その点、ブッダは「これで安心」というような答えを一つも言わない。これがひどいところなんだけど、私には信頼できる。だった、ニルヴァーナって何か、本当にわからないんですから。知り合いにパーリ語に詳しい人間がいるからその意味を何度も聞いたんです。パーリ語でニルヴァーナというのは、「息を吹くと火が消える」という語意だそうですが、煩悩が消えるというのはどういうことかがわからない。ブッダの言っていることをどんなに読んでも、何が解決なのかわからない。わからないままチップを張るしかないわけです。
ジャック・アタリ。2050年、そして2100年、世界の“中心都市”はどこか?国家、資本主義、宗教、民主主義は、どうなっているのか?「ヨーロッパ復興開発銀行」初代総
裁にして経済学者・思想家・作家であり、“ヨーロッパ最高の知性”と称されるジャック・アタリ。これまでも、ソ連崩壊、金融バブル、新たなテロの脅威、イ
ンターネットによる世界変化を予測し、見事に的中させてきた。本書は、アタリが、長年の政界・経済界での実績、研究と思索の集大成として「21世紀の歴
史」を大胆に見通し、ヨーロッパで大ベストセラーとなったものである。
フリーとは無料であるという意味と、自由であるという意味の二つの意味を併せ持つ。無料経済の規模がますます拡大している現在の中で、それがどのようにまわり、どのような可能性を持っているのか書かれた本。
無料版を1万人限定でダウンロードできる。http://www.freemium.jp/
-上杉隆
その13編の警句は、ニューヨーク・タイムスにかかわる個々人が、取材し、執筆するにあたっての注意点を列記したものであった。そこには、日本の報道機関には見られない率直さと余裕、そして誇りが窺える。
・Embrace diversiy.(多様な価値観を受け入れよ)
・Accept responsiblity; delegate authority.(責任は受任すべし、だが権威は委任すべし)
・Maintain perspective and a sense of humor.(常に大局的に捉え、ユーモアのセンスを忘れるな)
・Our jouralistic work is sacrosanct.(ジャーナリズムは神聖不可侵なものと心得よ)
・Don't be a slave to boudgets.(カネの亡者となるなかれ)
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「記事には常に責任が生じるものだ。取材・執筆した記事に対しては最終的に責任を負わなくてはならない。もし責任を負えないというのならば、その記事は書かれるべきではない。少し考えたが、署名記事は絶対条件だ。それができないというならばフリーランスの仕事を認められないか、もしくは君とは「契約」を結ぶことができないということになる。」




