そういえば最近原宿で会ったストリートバスケットボーラーの選手でジェイソンという奴は、父親がアル中で両親が離婚し、貧乏でほとんどストリートチルドレンとして生活して、教育も受けられなかった。
しかしバスケットボールが好きで続けている内に街のコートで友達ができ、父親代わりとしてマジックジョンソンを愛し尊敬して育った。スポーツを通して友人を作り人生を学び内に、勉強をしたいと思うようになり、奨学金をもらって日本のICUに留学に来た。そして今ではバスケットを通してみんなに恩返しをしたいと思っているそうだ。
また先日会ったパリのプロバスケットボーラーでファションデザイナーのヤスもフランス社会では最下層の移民だったが、バスケットボールのおかげで社会的にも自立して、今後日本でも活躍しそうだ。
彼らはタフでガッツがあり、セコくなくて、愛が感じられる。社会で敗者復活して普通に上手くやってる人を見ると、品格さえも感じることがある。本当に自由に生きるのは簡単ではない。
original: http://www.kuroteru.com/2009/04/post_103.html
ひとりで見る夢は夢でしかない。
しかし、誰かと見る夢は現実だ。
-オノ・ヨーコ
original: http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090423/1240454590
その中で生まれて初めてプログラマーという職業の方と交流させて頂いたのだけれど、彼らはなかなかにユニークで特異な個性の持ち主たちであった。もちろんプログラマーと一口に言っても色々なタイプがいて、必ずしもひとくくりにできるわけではないのだが、共通していたのは好奇心が旺盛で新しい物好きだということだった。そして少々気難しい面がありつつも、基本的にはポジティブで、明日に向かって色々なことを前向きに、精力的に取り組んでいる人が多かった。
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新人プログラマーがプロのプログラマーとして独り立ちするための7つの条件
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その1「プログラマーであることに誇りを持たない」
Tさんがまず初めに言ったのがこれだった。ぼくは意外に思って「そうなんですか?」と思わず聞き返したが、プログラマーははっきりとした形がある世界の職人ではなく、むしろ形のないところに形をこさえるようなものだから、誇りを持つのはかえって邪魔になるし危険だということを語られた。プログラマーは、プログラマーであることに誇りを抱いた瞬間に停滞が始まるのだという。そしてこれまで、Tさんは何人もそういう誇りを抱いて停滞してきたプログラマーを見てきたということだった。
プログラマーで何よりも大切なのは、昨日までの自分をどれだけ潔く捨てられるかだということである。そして新奇なことにどれだけ躊躇なく立ち向かっていけるか。そこに伴うべきものは飽くなき好奇心だけで、誇りなどは文字通り「埃」と一緒に身に付くやいなやさっさと払い落とすに越したことはないということだった
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その2「常に手抜きを考える」
Tさんに言わせると、プログラマーというのは「性格のねじ曲がった面倒くさがり屋」でなければならないということだった。優秀なプログラマーは、「物事を面倒くさくなくするためだったら、どんな面倒くさいことでもする」のだそうだ。だから、ここで言う「手抜き」とは、何も手抜き工事をするということではなく、どれだけ楽をしてそのプログラムを組み立てられるか(つまり手を抜けるか)、ということであった。それをするために、プログラマーは全力を傾けるべきだとTさんは言った。
これを聞いた瞬間、ぼくは真っ先に将棋のことを思い浮かべた。将棋にも「手抜き」という言葉があって、定石とか通常の段取りとかを一個飛ばして危険な箇所を放置したまま攻撃を仕掛けることをそういうのだけれど、これを上手に使える棋士というのは、それだけで俄然有利になる。将棋においては、一手得することは本当に大きなアドバンテージになるので、どれだけ手抜けるかというのが、そのままその人の実力を決めると言っても過言ではないのだが、Tさんのプログラミングも、勝負強い棋士のように、要所で手抜きをして、局面を短手数で進めることをよしとしているということだった。
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その5「勘を鍛える」
これは「その4」とも通じるのだけれど、意外なことに、プログラムというのは「勘」がとてもだいじなのだということだった。もちろん、普段の勉強や経験の積み重ねはだいじなのだけれど、前述したような手を抜く際の思わぬアイデアというものは、ふとした閃きや勘、あるいは直感から生まれることがほとんどなのだそうだ。あるいはバグを見つける時も、最初に勘を働かせて「ここら辺に問題がありそうだぞ」というのがピンと閃くと、けっこうな確率で当たっているのだそうである。そういう勘が冴えるようになると、プログラムやデバッグに割く時間はとても短くなり、おかげでリソースが足りないという問題も解決できるのだという。
だから、諸々の問題を解決するためには、プログラマーにとって勘の良さは必要不可欠なのだそうだけれど、これは規則正しい生活や食事、安定した精神状態、清潔さによって鍛えられるそうで、だからTさんは、とにかく健康には人一倍気を遣っているとのことであった。
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その6「美的センスを身につける」
これもTさんのこだわりなのだそうだけれど、とにかく美的センスのないやつに良いプログラムは書けないとのことであった。スティーブ・ジョブズはPCの美しさにこだわって、基板のデザインにまで口を出したらしいけれども、Tさんもそんなジョブズの考え方に全くもって同意するとのことであった。
プログラムも、やっぱり良いものはある種の美しさを醸すようになって、これは逆に言えば、美しいプログラムさえ書いていれば、それは自ずから良いプログラムになるとのことであった。だから、良いプログラマーには美的センスが絶対的に必要で、そのためにTさんは、常日頃から有名なデザイナーの作品集を買ったりだとか、古今の家具や建築などに触れ、自分の美しさに対する感度をできうる限り高めるようにしているのだそうである。
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その7「忘却力を備える」
これもまた意外だったのだが、Tさんによれば、プログラマーには何より「忘れる力」が大切なのだということであった。
理由は二つあって、一つは、プログラマーは覚えなければならないことがあまりにも多いということ。そのため、余計なことはさっさと忘れるようじゃないと、とてもじゃないが必要な情報をいい感じで脳の中の取り出しやすいところにしまっておくことができないのだそうである。Tさんによれば、それこそ人間の脳というのは限られたリソースであって、余計な記憶をしまっておく場所は一ミリたりともないとのことであった。だから、忘却力——PCでいうならクリーンアップや圧縮が本当にだいじで、余計なことは普段からなるべく忘れるように心がけているのだそうだ。
もう一つは、色んなことを覚えたままだと、夜眠れなくなるのだそうである。特に若い頃は、かかりつけのプログラムが眠ってるあいだも気になって、おかげで快適な睡眠が取れず、仕事の能率がかえって落ちてしまったことがあったのだそうだ。そうしたことを避けるために、年齢を重ねるに連れてTさんは、仕事が終わるとパッと仕事のことを忘れる忘却力を鍛えていったのだそうだ。そうやって、オンとオフを上手に切り替えることによって、きちんと睡眠を取り、次の日はまた集中して仕事をする——そういうサイクルを確立できるようになって、仕事の能率もぐんとあがったのだそうである。その意味でも、忘れる力——すなわち「忘却力」は、本当に大切だとのことであった。
映画:四川のうた 監督:ジャ・ジャンクー
http://www.bitters.co.jp/shisen/yokoku.html
中国の急激な変遷を、一般の人々の目線のままに、映画という語りの中で伝えてきたジャ・ジャンクー監督が、ダムの建設で水没する村を描いた『長江哀歌』の後に作ったのが、この四川省の成都で、50年の歴史を持つ巨大国営工場を舞台に撮影した『四川のうた』。そこで家族と共に暮らし、工場を“故郷”である労働者たちの日常のエピソードを撮りながら、ドキュメンタリーとフィクションを織り交ぜ、偶然にも、世界的に報道された四川大地震前に作られた美しい瞑想のような作品となっている。
監督インタビュー:http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/jiazhangke/index.html
<420工場>の工員たちが人生を語る時の表情や眼差しの美しさに感動しましたが、彼らは最初から心を開いてくれたのでしょうか。彼らの自然な表情を引き出すのにどんな工夫をしましたか。
正直なところ、取材はとても困難でした。実感として、(まず)あれだけの人数を取材した経験がなかった。でも大変だったのは、彼らが話してくれないことではなく、なかなか自分の話をしてくれないことでした。しかも勇気がないからではなく、自分を大事と思っていないからです。全体として生きてきた時代があまりに長くて、自分を大事な存在とは思えず、自分の話など聞いてどうする、と言いたげでした。それで他人の話ばかりになる。でも私が聞きたかったのは、一般の人である“あなた”の話だ。特殊な人生を聞きたいのでなく、一般的な“皆さん”の気持ちや普遍的な話が知りたいのだと伝えても、理解してもらえるまでに時間がかかりました。
http://www.wdl.org/en/
UNESCOが作成。人類の文明遺産に関する膨大なドキュメントに自由にアクセスできる。
もしもなにかをやるとしたら次の世界に繋がることを考えよ。
1922年のイヌイットの家族の生活を撮影した80分の貴重なドキュメンタリ。サイレント映画。
一台のカヤックから5人家族と子犬がでてくるオープニングは圧巻。
カヤックを漕いで漁にいく姿や、犬ぞり、魚突き、イグルー造り、アザラシ獲りなど興味深いシーン多々。
http://hilbert.elcom.nitech.ac.jp/~hontani/lecture/CompGeo/04/04.pdf
金沢さんの「月の翅 moontropic」をしばらくぶりに読み返していて、人間が不死や再生を願うようになる言語文化的な根っこに触れた気がした。そしてそれは古今東西の物語が想像力の養分を吸い上げてきた根っこでもあるようだ。
…… 盈虚[えいきょ]する月や、動物の脱皮や、植物の栄枯といった自然の循環現象が、人間をして実際には自然界には存在しない<不死>や<再生>の観念に想到せしめた、……、一方同じ発想にもとづく<死と再生>の概念が、人が一生のあいだにくり返し経験する通過儀礼の根底に横たわっている……。たとえば成人式は通過儀礼の最たる例だが、成人するということは、子供としていったん死に、新たに大人として生まれ出るということだ。成人としての再生を迎えるために、多くの社会では集団を離れての試練という象徴的な死を通過しなければならない。その試練をくぐりぬけて初めて結婚の資格が与えられ、社会の成員として受け入れられることになるのだ。
(金沢英之「月の翅 moontropic」、『グラヌール NO.3』12頁〜13頁)
このくだりを読んだ時、現代社会ではすっかり形骸化してしまった通過儀礼のことを寒々しく思い、宮本常一の次のような苦い言葉を思い出していた。
すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものを進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。
進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくとも人間一人一人身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらがにぶっているように思うことが多い。
(宮本常一『民俗学の旅』234頁)
死を直視し、死者の言葉に傾聴する想像力こそが、人と社会の再生や新生のエネルギーを供給するのだろう。
original: http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090414/p4
社会の底が抜けて、生存権さえ奪われた人々が増える中、最低限の衣食住を無償で提供し、「生活保護へのベースキャンプ」になっている寺があるという。在家の僧侶の真壁太隆(まかべたいりゅう)さんが6年前に宮城県南部の阿武隈川沿いに、古い農家を改造して開いた曹洞宗の寺、不忘山行持院(ふもうさんぎょうじいん)である。檀家も墓もなく、葬式も法事もやらない。「死んだ人」相手のサービスはいっさい行わず、生きている人々の苦しみに寄り添い、救済することを目指しているという。
当初は職や住まいに困った外国人の面倒をみようと思った。それが今年初めから、派遣切りなどで仕事を失った人たちの「駆け込み寺」になっている。布団と三食を無償で提供し、月5千円の生活費も出す。寺だからといって座禅させたり、説教することはない。
そんな寺の維持費は寄付のほか、美容室の経営などの事業から得る収入を充てているという。得たお金を何に使うかで個人や組織の器や品格が問われる。いろいろと厄介な問題が予想されるだろうが、真壁太隆さんは「修行のひとつ、当たり前のことをしているだけ」と毅然としているという。
