original:http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20091107
これは、世界の水を一握りの多国籍企業が独占しつつある実情を暴いた映画です。
水は空気と同じく生物の生存に不可欠なものであり、
国家が国民に対して、その供給を保障するべきものです。
ところが、現在、世界の水は、石油、穀物、電気などど同じく、商品として巨大企業に独占されようとしています。
日本を含めた先進国の水道が、政府ではなく、民間企業に管理されつつあります。
民間企業は営利目的のために、下水場を売り払い、上水の水圧を下げ、水道代を上げてきます。
空気と同じく人間の生命に不可欠な、水 が民間企業に独占されつつある現状をレポートしています。
アメリカのボトル水の多くが実は地元の水道を蒸留しただけのものだと暴いたCNNニュース。
ミネラルウォーターにしても、本来は川や地下水として公共に使われ、自然のサイクルを形作るはずの水源から、水を汲み上げてボトルに入れて売ることには倫理的問題がある。
original: http://blog.tatsuru.com/2009/11/06_1854.php
人間が知的ポテンシャルを一気に向上させるのは、「自分が何をしているのかよくわかっている」ときではなく、「自分が何をしているのか、よくわからない(でも、もうすこしでわかりそう)」ときである。
学校教育とはこの「自分が何をしているのか、よくわからないけれど、なんだかもう少しでわかりそう」という状態を長期にわたって継続させることをめざして制度設計されている。
学校をめぐる「儀礼」の多くはその「わからないけど、わかりそう」というグレーゾーンに子どもをとどめおくために、きわめて巧妙に構築されているのである。
学校制度を構築している無数の「よく意味のわからないきまりごと」については、これを軽々に「合理的」判断に基づいて改廃すべきではない。
たとえば学校というのは通常「装飾性のつよい、ことごとしい建築物」であるが、これはそこが「非現実的なことがなされる場」であることを子どもたちに印象づけるための仕掛けである。
養老先生によれば、ヨーロッパにゆくと、どこの街でもいちばん豪奢なのは教会と劇場だそうである。
「そこが嘘が語られるところだから」だ、というのが養老先生のご意見である。
「この中で語られることは現実の話じゃありませんよ」ということを外見の過剰な装飾性によってあらかじめ「おことわり」しておくのである。
-内田樹
「お前は過去をふたたび生きるために旅しておるのか?」というのがこのとき発せられた汗(カン)の問いであるが、それはまたこんなふうに言ってもよかったー「お前は未来を再発見するために旅しておるのか?」と。
そしてマルコの答はー「他処なる場所は陰画にして写し出す鏡でございます。旅人は自己のものとなし得なかった、また今後もなし得ることのない多くのものを発見することによって、おのれの所有するわずかなものを知るのでございます」
フビライはマルコに訊ねる。ー「西方に帰れば、その方は朕に語って聞かせているのと同じ話をその方の国民にもくり返し語るのか?」
「私はいつでもただ話をするだけでございます」と、マルコが言う。「しかし私の話に耳傾けるものは、自分の待ち望んでいた言葉のみを受け止めるのでございます。陛下が忝くも耳かし給うこの話が別のものならば、また私が帰国いたしましたときにわが家の建つ波止場通りの人足小屋や船小屋をへめぐる話もまた別のものであり、またさらに後年になり、ジェノヴァの海賊どもの虜となって冒険譚の書き手と一つ牢につながれるということにでもなりましたならば口述するかもしれませぬその話もやはり別ものでございましょう。物語を支配するものは声ではございません、耳でございます」
-カルヴァーノ
ある秋の夕暮れのこと(この話を特別扱いするのを許してほしい)、ごくふつうの秋の夕暮れ(僕は十一歳になっていた)、何の準備もなく、前触れもなく、驚くほどあっけなく抒情詩の女神エウテルペが僕たちの家に姿を現した。それはその季節唯一の大事件で、そのよどんだ秋の現状に差し込む唯一の光だった。僕は台所の木箱の上に横になり、退屈な秋を眠ってやり過ごそうとやっきになって、頭から毛布をかぶり、将来を、愛を、禁欲的に考えることで、飢えをしのごうとしていた。飢えは繊細さを生み、繊細さは愛を生み、愛は詩を生む。そして僕の愛と将来についての漠然とした認識は、輝かしい、めくるめく色で描かれた世界地図となり(父の本の付録)、手の届かぬもの、絶望となった。旅だ。恋だ。ああ、アフリカよ、ああ、アジアよ、ああ、遥かなる彼方よ、ああ、我が人生よ。瞳を閉じた。ぎゅうっと、痛い程固く閉じた瞼の下で、灰色の現実は空想の炎とぶつかり、茜色に輝いて燃えあがった。それから黄色、青、紫に溶けていった。ほんの一瞬、点が開かれ、ファンファーレが鳴りわたり、僕はお尻を出したかわいい天使たちが、蠅のように羽をはばたかせ、天国の茜色に輝く焦点のまわりをちらちら舞うのを見た。だが、それは、言ったように、ほんの一瞬だった。それからすぐに、深みに向かって、僕はまっさかさまに落ちはじめたが、それは夢ではなかった。僕のうちに、何か素晴らしい、すべてを包み込むリズムが刻まれ、ヘブライ語を語り出した霊媒みたいに言葉が口をついて出てきた。それは本当に何か不思議な言葉で、それまで聞いたこともない音でいっぱいだった。最初に僕を襲ったぞくぞくするほどの興奮がおさまってからやっと、僕はその意味について考えはじめ、音楽とリズムの揺らめく表面の下に、ごくふつうの言葉を見つけた。それは父が歌っていた舟歌にそっくりだった。
安易な広角はなぜダメかという話
http://members2.jcom.home.ne.jp/0914488901/anim.html
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もう一度人生をやり直せるなら・・・・
今度はもっと間違いをおかそう。
もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。
もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。
もっとたくさんのチャンスをつかみ、行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。
もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう。
もっと本当の厄介ごとを抱え込み、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。
もう一度最初から人生をやり直せるなら、春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。
もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、もっとたくさんの夕日を見て、もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。
もう一度人生をやり直せるなら・・・・
だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。
私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?
自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり ・・・・
もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。
人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。
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ドラッガーというよりも、ホイットマンだなーと思って原典をいくら検索しても見つからないので調べていると以下のブログが。
http://psychodoc.eek.jp/diary/?date=20091102
出典の明確にすることは文献の基本。疑問に思ったら出典に当たれ。出典が明記されていない文書の取り扱いは慎重に。
original: http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/558
努力は報われないほうがいい
現在進行形ですごい状態にある人を見て、「僕も頑張ってああなるんだ」なんて、 その人と同じやりかたで、同じ場所を目指して頑張るのは、危険なことだと思う。
何かの間違いがあって、頑張ったその人の成功を許してしまった業界は、その時点で詰んでしまうから。
承認のコストがつり上がる
同じ方法論で頑張った人は、どうあがいたってオリジナルのコピーにしかなれないものだから、 そういう人は、ものすごく頑張る。頑張った人が、「頑張り」に見合った承認を求めると、 世代を重ねるごとに、「頑張り」のコストはどんどん上がる。
業界のどこかで「すごい」を観測したのなら、その人と同じやりかたを重ねるのではなく、 「もっと簡単にあそこに到達するにはどうすればいいんだろう」なんて考えないといけないし、 それでも「頑張り」以外の答えが出ないなら、「すごい」その人たちがいなくても何とかなるように、 仕事のやりかた自体の書き換えを目指すべきなんだと思う。
「僕も頑張るぞ」というのは、危険な選択だと思う。
一度「頑張り」の魔界に足を入れると、もう後戻りができない。 頑張ったあげくにどこかに到達したとして、頑張りの元を取れなかったら失敗判定される。 「頑張り」というのは本来、ものすごく分の悪い賭けであって、「頑張るぞ」という選択は、 だから地雷原にあえて足を踏み入れるようなものなんだ、と理解しないといけない。
個人の体験が一般化する
頑張った結果として成功した人が、次世代に頑張りを「正解」として伝えると、業界が終わる。
教育をする人たちは、研修医には、「頑張る前に、それが本当に必要なのかどうか考えなさい」なんて 教えてほしいなと思う。
「とりあえず頑張る」というのは本来、保身の手段であって、成功の手段とは違う。
誰かの天才的なひらめきを見たら、それを「天才」と評するのは思考停止であって、 「凡人」を自覚している競合者は、同じような発想に、力ずくでたどり着くやりかたを考える。 天才抜きでも同じ結果を出せるような、そんなやり方が示されて、 初めてそこで、「頑張る」意味が見えてくる。
「漠然と頑張る」ことで成功した人というのは、たしかにいる。でもそれは、 やっかみ10割で言ってみれば、誰か高齢の、偉い人たちの視界に入り続けることで、 組織にとって「かわいい」人間となり、上に引き上げてもらうための、一種の処世術であったはずなのに、 「頑張った」人たちが、「僕たちは頑張ったから報われたんだ」なんて賢しげにつぶやくのは、 それはもう、後続を殺すための欺瞞情報なんだと思う。
「俺は偉くなるために年寄りの尻舐めたんだ」って威張るのは、むしろ大いに「あり」だと思うし、 そういうことを包み隠さず話してくれる人の言葉はとても大切なんだけれど、 「じじいの肛門を吸引すると元気が出るぞ」って後輩に教えたところで、 それを実践した下級生は、たぶんみんな病気になって倒れてしまう。
伝統芸能が証明されると業界がダメになる
自分たちの暮らす医療という業界が、「やっぱりあったけぇのが一番だよ」みたいな、 年寄りの価値観的なものに収斂していって、統計屋さんがそれを覆すどころか、 「暖かいやりかた」を強化する方向にすり寄ってるのに、すごく嫌な予感がする。 それをやられると、臨床が続けられない。
「名医ならば一目で分かる」的な、昔ながらのやりかたというのは、 それが再現できたらたしかにすばらしいんだけれど、それが統計的に「正しい」やりかただと証明されて、 それを常に再現するように求められたら、困ったことになる。自分は名医にはなれないから。
「名医なら余裕で分かる」が真になってしまうと、逆説的に、 「診察して分からなかったら名医でない」なんて、あるいは「診察直前までは名医でいられる」なんて価値を生む。 これは結果として、「診察しない名医」とか「逃げる名医」を増やしてしまう。
古い価値軸が統計で固められてしまうと、成功事例が収斂する。
「最初に診察したバカ医者を、あとから来た名医が口でたしなめる」というやりかたが 成功すると、リスク抜きに成功をつかむやりかたが決定して、 みんながそれを再現する。「名医」であり続けたい人は、そんな場所に自らを置こうと 立ち回って、実際問題、分からない患者さんを抱えると、 相談しても「分かってから相談して下さい」なんて、 「専門的意見」をもらうことが増えている。
昔のカブトムシは空を飛べた
統計野郎が業界のベテランにすり寄るちょっと前、自分が3年目ぐらいだったころ、 救急外来は大賑わいで、病院どうし、患者さんの奪いあいだった。 どこの病院も救急を受けて、救急外来はお互いに覇を競って、毎晩がお祭り騒ぎで、そこには医師があふれてた。
「名医のやりかた」が統計で固められて、「とりあえず何とかする」乱暴なやりかたは、 いつの間にか統計的に間違いであるなんて「証明」された。
「カブトムシは航空力学的に飛べないことが証明された」なんて、虫が飛んでるのを見れば、 嘘だってすぐ分かるのに、うちの業界だと、何とかしている奴らが「間違ってる」ことになった。
「飛んだら間違いだ」なんて言われたら、虫もたぶん地面を歩く。 何したって「間違ってる」とか言われたら、もう仕事ができない。 今から8年ぐらい前から、だから救急外来には、「診たら負け」なんて信じられない言葉が飛び交って、 救急車は行き場を失って、救急外来に立つ人は、一気に減った。
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関連して:
負けたほうがいい
宋 文洲
同期より少しでも早く昇進しようと、あれこれ上司に媚を売るサラリーマン達。
子供が塾や学校などで近所に負けないために、懸命に頑張る母親達。少しでも
他人を出し抜こうと、頻繁に車線を変更するドライバー達。毎日、ほとんどの
人々は知らないうちに他人との勝負に参加しています。
「勝ちたい」、「他人に遅れるまい」。そんな勝負の心が、残念ながらどんな
人間にも本能として潜んでいます。しかも目の前にある相当くだらないことで
むきになり、自分が見えなくなるのです。その先に何があるか、何のためにこ
んな勝負に参加しているかはまったく考えないのです。
なぜ走るか、走る人がいるからだ。なぜ行列に並ぶか、並ぶ人がいるからだ。
なぜ良い学校に入りたいか、できる人が皆良い学校にいくからだ。残念ながら、
この程度の理由で多くの人は人生を浪費してしまうのです。
趣味に没頭する時間、家族と一緒に居る時間。そんな刺激のない静かな時間に
幸せを感じられるようになれば、人は本当に幸せだと思います。我々人間がな
かなか幸せになれないのは、些細なことで他人と比較し、勝負する癖があるか
らです。
無意味な勝負に人生を浪費している間に、公園ではきれいな花が咲き乱れ、海
では真っ赤な夕日が海面に落ち、家では巣立ち前の子供が親の帰りを待ってい
るのです。この瞬間にも多くの幸せが我々を待ち侘び、それを掴まないと二度
と我々に属さないのです。我々には他人との勝負に参加する暇はないのです。
幸せの尺度は幸せに生きる時間の多さです。勝負に勝ったとしてもその幸せは
一瞬ですが、一輪の蒲公英のように静かに春を楽しみ、自然に風に自分を託す
生き方こそ最後の一瞬まで幸せなのです。
私が嫌いな日本語に「勝ち組」と「負け組」があります。人生は自分に属す幸
せを自分の心で感じ取る過程であり、決して他人との勝負ではないと切に思う
からです。
経営とコンサルティングを通じて多くの方々と出会ってきましたが、仕事がで
きる人も幸せになる人も、決して勝負にこだわる人ではなく、むしろ自らうま
く負けている人なのです。

