http://www.gamenews.ne.jp/archives/2007/12/99_1.html
米大学の多くが公開しているオープンウェアコース。東京大学も公開しているようです。
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/index.html
小柴昌俊さんの「宇宙と素粒子」とかおもしろそうな講座も公開されてます。
http://phobos.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewArtist?id=159237214
進化生体情報学
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/interfaculty-initiative-in-information-studies/evolution-ecology-infomatics-2005/movies.html
僕はピーター・ガブリエルというアーティストが好きなのですが、ある時彼が「海賊版CDがケニアで出回っていますが、いいんですか?」と聞かれたとき、こう答えたそうです。
「いいことを聞いた。ケニアに行ってライブをしよう」
つまり複製が可能な時代には、複製できないものの価値が上がっていくわけです。http://akihitok.typepad.jp/blog/2007/12/2008-9091.html
「KYなる言葉が流行しているらしい。「空気が読めない」の頭文字だそうである。」
現代日本のコミュニケーションの問題はどうもこのあたりにあるような気がする。
「場の周波数」にいちはやく同調すること「だけ」にコミュニケーションについてのほとんどのエネルギーが投じられているせいで、いったんチューニングが
合ってしまうと、あとは「チューニングがまだ合っていないやつ」を探し出して「みんなでいじめる」ことくらいしか「すること」がない。
そんなに「場の空気が読める能力」って大事なんだろうか。
私はそこにひっかかってしまったのである。
「場の空気が読めないやつとは暮らせない」と公言するのはかまわないけれど、そういう人は「他者との共生」とか「多文化共生」とかいう社会理論にもきっぱり反対すべきではないのか。
ともあれ、全国民がそのような能力だけを選択的に発達させた場合にコミュニケーションは豊かになるのかむしろ貧しくなるのか、そろそろそのあたりの損得勘定もしてみてよいのではないか。
日本語が崩壊状態になっている理由の一つはたぶんここにある。
「空気を読む」コミュニケーションには豊かな語彙や適切な統辞法や美しい音韻は無用のものである。
ある意味では「んげ」「ほげ」で十分だからである。
交話的コミュニケーションはコミュニケーションを解錠するものであり、その重要性は繰り返し強調する必要があることに変わりはない。
けれども、それが「解錠できないもの」を排除するスクリーニング装置として働くことや、「解錠したあとに送受信するコンテンツ」に対する配慮を軽視するこ
とにつながるのであれば、接続的コミュニケーション「だけ」に知的リソースを投じることにはもう少し謙抑的になるべきであろう。
-内田樹
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50971063.html
トップで走ってきた人は多々にして燃え尽きる(バーンアウト)。
「正しいこと、自分がやらなければならないことなのだ、という正義感や義務感が生じてしまったとき、「燃えつき」が生じやすい。」
瀬名秀明
「その代わり、圧倒的多数が採用しているのが、「複数のわらじを持つ」というものである。瀬名秀明自身がSF作家からサイエンス・ライターに転じた理由もほぼ間違いなくこれで、海堂尊が医者をやめない理由もおそらくこれで、卑近ではあるが私が年々何者かますますわからなくなってきている理由もこれである。ただし、私の場合は本人がこれを書くまで前頭葉で知っていたかどうかは定かではない。
このやり方の優れているのは、ある職業上における燃え尽きが、本人の燃え尽きに直結しないことである。だからある程度遠慮なく燃え尽きることが出来 る。そして面白いことに、その燃えた灰は、(次|別)の職業における肥やしに確実になるのである。こうして焼き畑と転作を繰り返していけば、火が尽きるこ とはない。」
小飼弾
http://www.unicef.de/foto/2007/english/index.htm
http://www.unicef.de/foto/2007/english/index.htm
小説家とプログラマは、元手がほとんど要らない点や、 ひとつの世界をゼロから創り出すという点で よく類似しているような扱いを受けるし、 私も類似点はあるのだろうなと思う。
-ruby - まつもとゆきひろ
人が作ったものはずっと人が手を加え続けていなければその形を維持できな
いのだ。
親の代、あるいはその遙か前からずっと使ってきた器物が壊れる。
共同体で何世代も前から用いてきた祭具が壊れる。
たくさんの人の手と視線で愛でられてきた器が使えなくなる。
「あれ」と言うだけで誰もがすぐにわかるほど親密になった器物。
時間をかけて道具とよしみを通じるということがあって、ぼくは昔それを道
具の定冠詞化と呼んだ。
何本ものナイフの中の1本ではなく、自分の手との相性ですぐにわかる、他
ならぬそのナイフ。
量産ということが人と器物の仲を変えた。
プラスチックなどの新しい素材がそれを推し進めた。
我々はもう物を直さない。
器物は買って、しばらく使って、壊れたら、汚れが目立つようになったら、
古びたら、より高性能の新製品が市場に出たら、捨てるものになった。
新品という歯切れのいい言葉ばかりが重用される。
身辺のどの器物にも歴史がない。
どれもが昨日来たような顔をしている。むしろ古いものは肩身が狭い。
かつてアイヌの人々は長らく使ってきた器物が本当に壊れてしまって使えな
くなった時、あるいは使い手が亡くなってもう継承しないと決めた時、それを
器物の天国へ帰す送りの儀式を行った。
住む人を失った家(チセ)はいさぎよく焼いた。
そのぎりぎりの時まではひたすら修理を重ねて使ったということだ。
器物には人格ないし神格があった。
そういうものを今ぼくたちは身辺にどれだけ持っているか。
失うことが深い喪失感につながるような親しい道具があなたにはいくつある
か。
かつてはすべての器物が親族や友人と同じくらい親密だったのに。
この特別展の企画者は、修理は修復とも復元とも補強とも違うという。
壊れる前の状態に戻すのではなく、壊れたところに手を加えて新しい物を作
り出す。
ここで新しいとは新品ということではなく、それまではなかったという意味
だ。新しい性格が加わる。
この展示を見ていると、現代のわれわれのようにすぐに新品を買うのは何か
低俗なふるまいのような気がしてくる。
。
振り返ってみても姿が思い浮かばない。忘れてしまうのだ。
丹念に修理された品々を見てそういう感慨を抱いた。
-池澤夏樹
http://www.energygreen.co.jp/personal.html