copy from genzo
2007.1.11
本を書くなら、「若書き」をすべきではない。
自分の中に、価値あるものを蓄え続け、
ある年齢に達し、
それが外に溢れるようになったとき、
自然に、本は生まれてくる。
2007.1.11
ひとの人生にとっての一日というのは、
きっと、降りしきる雨のなかの
一粒の雨の音のようなものだ
長田 弘
2007.1.6
事態を切り抜ける
ために必要なのは一つの狂気である
ということについては確信している。
心脳問題のように、どう考えても
ブレイクスルーの糸口が見つからないように
思われる事柄は、一つのよくマネッジ
された狂気によってしか
打開できないのである。
2007.1.4
労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な賃金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。
人間が継続的に活気にあふれて働くのはどういう条件が整った場合か?
そういうふうに問題を立てなければ、「なぜ若者たちは3年で辞めてしまうのか?」という問いには答えることができないだろう。
人間は「フェアネス」の実現と、「信頼」に対する応答のために働くときにその能力の限界を超える。
ベネフィットを分かち合うことによって、ベネフィットの継続的な享受システムを基礎づける。
これは人類学的な「常識」に属する。
今必要なのは、「自分のもとに流れ込んだリソース(財貨であれ権力であれ情報であれ文化資本であれ)を次のプロセスに流す」という「パッサー」の機能がすべての人間の本務であるという人類学的「常識」をもう一度確認することである。
2007.1.4
現代の日本の都市や住居環境というものは、奇妙なことにわざわざ金をかけて新しく建て換えを行うごとに、その外見はどこか「清潔なスラム街」と化していく傾向があり、本物のスラム街と比べてさえ狭苦しくて窒息しそうな閉塞感を感じさせるものである。
2007.1.4
異質なものに接するという学習効果
2007.1.4
モイヤーズ:先生は『神話のイメージ』のなかで、変容の中心について、時間という壁が消えて軌跡が現れる神聖な場所について、書いておられる。聖なる場所を持つとは、どういう意味でしょうか。
キャンベル:これは今日すべての人にとって必要不可欠なことです。今朝の新聞になにが載っていたか、友達はだれなのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあ るか、そんなことを一切忘れるような場所、ないし1日のうちのひとときがなくてはなりません。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことの できる場所です。これは創造的な孵化場です。はじめはなにも起こりそうにないかもしれません。しかし、もしあなたが自分の聖なる場所を持っていて、それを (上手に)使うなら、いつかなにかが起こることでしょう。
モイヤーズ:この聖なる場所は、平原が狩猟民にもたらしたのと同じものを私たちにもたらす。
キャンベル:彼らにとっては世界全体が聖なる場所でした。しかし、いまの私たちの生活は、その方向性において非常に実際的、経済的なものになっています。
だからみんな、ある程度の年齢になると、次から次へと目先の用事に追いまくられ、自分がいったいだれなのか、なにをしようとしていていたのか、わからなく
なってしまう。四六時中、しなければならない仕事に追われているのです。あなたにとって至福は、無上の喜びは、どこにあるのか。あなたはそれを見つけなく
てはなりません。ほかのだれもが見向きもしない古くさい曲でもいいから、とにかく自分が大好きなレコードを聴くとか、あるいは好きな本を読むとか。
比較神話学者、比較宗教学者ジョセフ・キャンベル(1904 – 1987)とビル・モイヤーズの会話より
『神話の力』(1992年 早川書房刊 飛田 茂雄翻訳)
2007.1.3
「何かを成すことに重きをおく必要はない。目立たない生き方(Keep a low
profile)ってものを常に心に留めておくこと。」遠い眼をもった古い魚市場で長く働く一人の年寄り。「一杯の水をコップに入れたまま走るってのがど
んな生き方かわかるかぃ?」いたずらっぽい笑いを浮かべながら「最後までその水をこぼさなずにいれる人は幸運だったってだけさ。自分以外のことを、どれだ
け考えることができるかってのだけが、その人の目盛りをあらわすもんだ。」(しっているかい?世界は不思議さに満ちている。)
2007.1.1
新しい体験ができるチャンスは決して逃さないこと
2007.1.1
「世の中には、二種類の人間しかいない。分かっていない人間と、分かっている人間—目に見えている世界の表層だけをなぞる人間と、その表層の集合体から本質を見極めようとする人間だ。」
…
「表層だけをなぞる人間でも、世間並みの成功は収めることができる。事象のみを捉え、その対処法を経験値として蓄積してゆく。そして、その経験値を元に未
来に対処してゆく。少し聡い人間なら誰でもやっていることだ。だが、あくまでも意識にはその表層レベルにいる。いわば処世術にすぎない。それでは本当に分
かっているとはいえない。住む世界や国が変わり、就く仕事が変われば、それまでの話だ。以前の対処法は通用しない。が、その表層の集合体から物事の理(こ
とわり)を導こうとするものは、違う世界でも生き残ってゆく。」
2006.12.27
団塊の世代とは、昭和二十二 (一九四七) 年から二十四(一九四九) 年の三年間に生まれた世代で、その数八百万人にも及ぶ。来年は団塊の世代が初めて還暦を迎える年である。
拙著「ウェブ進化論」 (ちくま新書) で、私はこれからの社会を「総表現社会」と定義した。IT(情報技術 )とネットの進化によって、私たち一人ひとりが、自分の考えや作品を自由に世界に向けて発信できる時代がやってきたのである。二〇〇六年のブログブーム は、その先駆けである。
本欄の読者をはじめ、世の中には、途方もない数の「これまでは言葉を発してこなかった」面白い人たちがいる。私は「ウェブ進化論」の書評や感想を ネット上で一万以上読み、そのことを心の底から実感した。人がひとり生きているというのは、それだけでたいへんなことなのだと思った。
たとえばあるとき私は「これは凄い書評だ」と目を見張るような文章に検索エンジン経由で出合った。調べてみればそのブログ筆者は、膨大な量の読書を しながら内科医を三十年続けてきた団塊の世代の方なのだと知った。医学を修め、その後も人の生と死を見つめながら、六十歳近くまで思索を続けてきた市井の 知が刺激的でないはずがないのだ。教養レベルが高く中間層の厚い日本社会には、そんな潜在知が満ち溢れている。
一般に、ネット世界への関心は、リアル世界での充実度や忙しさと反比例する。一日は二十四時間しかないのだから仕方のないことである。しかし定年退 職というきっかけは、人々の時間の使い方の優先順位を大きく変える。リアル世界での日常に余裕が出た団塊の世代は、間違いなくネット世界で過ごす時間を増 やし、いずれ「総表現社会」の重要な担い手になる。二〇〇七年は、その始まりの年になるに違いないのである。
(毎日新聞2006年12月26日夕刊)
2006.12.26
Words are flying out like
endless rain into a paper cup
They slither while they pass
They slip away across the universe
あふれだす言葉が、止まらない雨のように
紙コップに降り注ぎ
すべるように通りすぎて
消えてゆく 宇宙をこえて
「Across The Universe」Beatles
それにしても、インターネットや携帯電話といったツールがこれだけ普及したのに、
「会って話す」のが最も効果的なコミュニケーションなのは皮肉な事。
もしかすると人間は、それを再確認するために色々なツールを作り出しているのかもしれません。
2006.12.24
失敗をしてしまう傾向は、この世界におけるすべての発展の根底に横たわる。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』
想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』
この世界こそ、すべての中で最も素晴らしい間違いなのである。生まれたての赤ん坊が、この間違いを犯そうともがくのを目にしたとき、運命に身をゆだねるべ
きなのである。(中略)意味を与えることと間違いを犯すことは、決して分けることのできない1つの根本的な現象の両面なのである。1つも間違いをしないも
のは、痕跡すら残すことができない。虚空という単語は、私たちにとって最も大きな恐怖である当のもの、意味がないことに対する意気消沈した感覚に対して与
えられたものである。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』
2065.12.19
「人間が人間として客観的に実現されるのは、労働によって、ただ労働によってだけである。人間自身が現実に、客観的に自然的存在者以上のものであり、それ
と異なったものであるのは人為的対象を作り出した後であり、人間が自己の人間的かつ主観的な実在性を真に自覚するのは、ただこの実在する客観的な所産にお
いてである。(・・・)労働することによって人間は精神を『体現』し、歴史的な『世界』となり、『客観化された』歴史となるのである。」(アレクサンド
ル・コヴェーヴ、『ヘーゲル読解入門』)
2006.12.17
"Life is like playing a violin solo in public and learning the
instrument as one goes on." - SAMUEL BUTLER
〜人生とは公共の場所でただ独りバイオリンを弾くようなものであり、弾きながらその楽器の演奏が上達するようなものである〜
2006.12.14 ロハスと癒しとセレンビリティ
ロハスのキーワードは多様性。多様さの持つ豊かさがロハスである。
ロハス的な世界ではすべての世界にそれぞれがもっているあけの豊かさがあるものだということを知ること。
癒しとは全体性の回復。それ人それぞれに欠けているなにかを補ってあげること。皆に対応する癒しというものはない。
セレンビリティ = 偶然性。自分ではコントロールできないことが世の中にあるということをできるだけはやいうちに知ること。
偶然をとらえる能力。
セレンビリティがロハスとすごく関係している。ロハスのポイントは多様性。
世の中が多用でなければセレンビリティはありえない。世の中がみんな自分のコピーだったら偶然の出会いというものがありえない。
多様性を保つというのは世の中のためだけではなく、自分にとってよい。自分が様々な出会いをできる。金子みすずのみんなちがってみんないい。というのは道徳的な意味ではない。ロハスというものはインターネットやweb2.0とも当然関係する。
脳にはあるとあらゆる状況に対応するモードが埋め込まれている。
脳のバランスを保つのは一つのモードではなくたくさんのモードを使うことが全体性を回復すること。
Aに出会う途中でBで出会うことがセレンビリティで、はっきりいってAはなんでもよい。
まず行動しなければならない、そして行動のなかで何かに気がつかなければならない。行動して、気づいて、観察、理解し、実現する。<茂木健一郎>
2006.12.01
文化資本には「生まれ育っているうちに自然に身についてしまったもの」(生得的な文化資本)と、「後天的に努力によって身につけたもの」(学習された文化資本)の二種類がある。
文化資本の秘密(つまり文化資本がどうして「資本」として機能するのか、その理由)は、それが「二種類ある」という原事実のうちに存する。
つまり、「それが自然に身についてしまった人」と「それを見よう見真似で習得しようとする人」のあいだの「わずかな、しかし決定的な違い」のうちに文化資本の資本性は存する。
文化資本というのは実在するものではない。
それは貨幣や威信や情報が実在するものではないのと同じことである。
貨幣はそれを「貨幣だ」信じる人が存在するときにのみ存在する。それを信じる人がいなければ、それはただの紙切れである。
威信もまたは内在的資質ではなく、二人以上人間がいて、一方が他方に対して威圧的であることが許されるということに両者が同意した場合にしか出現しない。
主観的に「私は偉い」と思っていても、相手がそれを承認しなければ、「キミ、し、失敬な。私を誰だと思っているんだ」と力んでも失笑を買うばかりである。
私たちの社会で「資本」と呼ばれているものはすべて幻想である。
幻想だからダメだ、などということを私は申し上げたいのではない。
幻想は幻想できちんと機能していただかないと世の中は動かない。
幻想がどのように機能し、どのように機能不全になるかについてはリアルでクールな考察が必要であるということを申し上げたいのである。
今日、社会的上位者には教養がない。 かわりに「シンプルでクリアカットな言葉遣いで、きっぱりものを言い切る」ことと「自分の過ちを決して認めない」という作法が「勝ち組」の人々のほぼ全員に共有されている。 別にこの能力によって彼らは社会の階層を這い上がったわけではない。 たまたまある種の競争力を伸ばしているうちに「副作用」として、こういう作法が身についてしまっただけである。 だが、「ひそみにならう」人々は、これが階層差形成の主因であると「誤解」して、うちそろって「シンプルでクリアカットな言葉遣いで、きっぱりものを言い切り」、「決して自分の過ちを認めない」ようになった。 そうして教養が打ち捨てられたのである。
2006.11.28
無一文無尽蔵
2006.11.21
人間が自らの行動を決定する要素のうち、意識できている部分は5%、無意識の部分が95%。つまり、人間の多くは言語化どころか意識すらしていないと言える。<ジェラルド・ザルツマン>
2006.11.18
「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。
2006.11.8 世界三大宗教の一つといわれる佛教が宗教でないとしたら何???
「It's a science of mind.」
2006.10.29
情報の豊かさは、それがそれが消費するものの稀少性を意味する。情報が消費するものは、かなり明白である。それは情報を受け取る人の関心を消費するのであ
る。したがって情報の豊かさは関心の稀少性を作り出し、それを消費する膨大な情報源に対して関心を効率的に配分する必要が生じる。<ハーバート・サ
イモン(1971)>
2006.10.27
「才能は最高の作品で、人格は最悪の作品で判断しよう」アクトン卿
でも現在では、世界は非常に多用な状況がある。物事の変化が早く、また変動幅も大きいので、伝統はガイドとしてあまり役立たなくなった。世界が複雑になればなるほど、バカと思われることを恐れないことがより重要となる。
「試す」って言葉が特に重要だ。私はこの点で「『試す』などない」と言ったヨーダに反対だ。「試す」はアリだ。それは、失敗しても罰がないってこと だ。義務ではなく好奇心で動くってことだ。後回しも仕事を避けるための後回しではなく、好きなことをやるための後回しになるだろう。そしてそれをしている 時、いい気分になるだろう。仕事に想像力が必要な仕事ほど、ますますいい仕事ができる。なぜなら人々は幸せなとき、さらにいいアイデアが浮かぶからだ。 <ポール グレアム>
2006.10.22
そこでみた夢がよい夢ならば、すばらしい場所、永遠の地となって記憶にのこる。そんな至福のうたた寝をしたいがために、風と追いかけっこをして、どこかへいく。軽装であること。肥満を敵とすること。といって苦行僧のガリガリを美とはしないこと。
2006.10.22
おカネはごはんみたいなもので、なかったら死ぬけど、食べきれないほどあってもしょうがない」
2006.10.22
もしもあなたが人間ならば、人間という生き物が決して特別な存在ではないことを知らなければならない。
2006.10.21
"Du kannst denn du sollst" --- 「可能なら、やらねばならない」
2006.10.20 16歳の君へ
高校生と大人の違いは何かと聞いたなら、たぶん大人は生活のために稼がなくちゃならない、と答えていただろう。間違いだ。ほんとうの違いは、大人は自分自
身に責任を持つということだ。生活費を稼ぐのはそのほんの小さな一部にすぎない。もっと大事なのは、自分自身に対して知的な責任を取ることだ。
もしもう一回高校をやりなおさせられるとしたら、ぼくは学校を昼間の仕事のようにあしらうだろう。学校でなまけるということじゃないよ。昼間の仕事 のようにやる、っていうのは、それを下手にやるってことじゃない。その意味は、それによって自分を規定されないようにするってことだ。たとえば昼間の仕事 としてウェイターをやっているミュージシャンは、自分をウェイターだとは思わないだろう [3]。同じように、ぼくも、自分を高校生だとは思わないだろうね。そして昼間の仕事が済めば、本当の仕事を始めるだろう。
今、ぼくは素晴らしい仕事をした人を何人も知っているけれど、みんな同じなんだ。自分を律するということをほとんどしない。延ばせることはぐずぐず先に延ばすし、興味のないことをやらせようとしても全くの無駄だ。
いい仕事をしたいなら、必要なのは見込みのある問題に対する大きな好奇心だ。
悪いモデルに気をつけよう。特に怠けることを肯定するようなものにね。ぼくは高校生の時に、有名作家がやっているような「実存主義的」短篇小説をいくつか書いたことがある。そういうものっていうのは、読んで面白い小説を書くよりも、たぶん簡単だ。
大事なことは、外に出てなにかを為すことだ。黙って座って教えられるのを待つんじゃなく、自分から踏み出して学ぶんだ。
まず第一には、子供の時に石の下を覗いたのと同じ理由からだ。純粋な好奇心。そして特に、禁じられていることに対する好奇心。とにかく見せてよ、それからそれをどうするか自分で考えるから。
最良の方法は、おそらく、ユーモアだ。
2006.10.09
旅に出るということは、見慣れた自分の日常の風景から少し目をそらし、非日常の世界に入っていくことでしょう。しかし、そこで出会うのは他者の日常に過ぎ
ません。でも、それを非日常の風景として眺めつつ体感することで、自分の日常が相対化されて新たな世界が拡がることがあります。それが旅の効能の一つなの
でしょう。そう考えると、あえて物理的な移動を伴う旅をしなくても、日々の暮らしの中で心の旅をすることも十分可能です。逆に物理的な移動を伴う旅をして
いても、心が旅をしていなければ、こうした効能を得ることはできません。<拓海広志>
2006.10.02
A human being shoud be able to change a diaper,
plan an invasion, butcher a hog, conn a ship,
design a building, white a sonnet, balance accounts,
build a wall, set a bone, comfort the dying, take orders,
give orders, cooporate, act alone, solve equasions,
analize a new problem, pitch manure, program acomputer,
cook a tasty meal, fight efficiently, die gallantly.
Specialization is for insects.
2006.09.15 海を見つめなさいー。無数の雲が海よりたち昇り、他量の水が蒸発している。だがそのために海が減ることはない。海は大地に雨を降らせる。その水は大洋へと 帰ってゆく。大地の水は海へと注ぐが、それが海を増すことはない。海は同じままだ。その完全性は奪うことも加えることもできない。
2006.09.15 無は自由をもたらす。自己からの自由こそは究極の自由だ。それより高次の自由は何もない。無は自由であり、そしてそれはJ.P.サルトルの言うような不安 でもなく、キェルケゴールが言うようなおののきでもない。それは祝福だ。それはおののきじゃない。なぜならば、そこには誰もおののくものがいないのだか ら。
2006.09.15 それにえに、シャーリプトラよ、空において、そこにはいかなる形象もなく、感覚もなく、知覚もなく、意識もない。眼も、耳も、鼻もなく、舌も、体も、心も ない。形もなく、音もなく、匂いもなく、味もなく、触れられるものも、心の対象もない。視覚組織の領域から心意識の領域に至るまでことごとく何もない。そ こにはいかなる無知もなければ無知の消滅もなく、衰弱や死から、衰弱や死の消滅に至るまでことごとく何もない。そこにはいかなる苦しみも、苦しみの原因 も、苦しみの停止も、苦しみをなくす道もない。いかなる意識もなければ、いかなる達成も無達成もない。
2006.09.7 「これほど多くを知りながら、これほどわずかしか理解できないという事態を、いったい誰が想像しただろうか?」アインシュタイン。 「知ろうとすることをあきらめること、これが量子論から教えられた教訓のひとつだわ」
2006.09.04
人間の努力というのはつまるところ、生きられる場所をつくるというひとつの仕事にしか向けられてこなかったのだ。
<レヴィ・ストロース>
2006.08.24
愛が起こると自分の愛するものを超え、あらゆる人に広がる。
それはちょうど湖上の波紋のようだ。
愛があれば、あなたが特定の方向に流すことはできない。
執着は特定の方向に向けることができるが、それは愛ではない。
2006.08.20
カネを稼ぎ増やすよりも、カネを正しく使うことのほうがずっと難しい
2006.08.01 できるだけ若い時代に正面から伝えておくべき二つの真実 1.人は必ず死ぬ。 2.人生はただ一度しかない
2006.07.14 できることなら、
空を泳ぐ魚になりたい。
2006.07.07
「餅は餅屋」「蛇の道は蛇」「好きこそものの上手なれ」と多くの俚諺が教えている。 ひとりひとりおのれの得手については、ひとの分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意なひとにやってもらう。 この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。 自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない。 自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で繕い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せ ず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱりわか らない。 それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。 私は自分で生活費を稼いでいるし、身の回りのことはだいたい一人でできるけれど、そんなことを少しもよいことだと思っていない。 できることなら私の代わりに誰かがお金を稼いでくれて、ご飯も作ってくれるし、洗濯もアイロンかけも、ゴミ出しもトイレ掃除も全部してくれる状態が来れば いいなと思っている。 だって、そうすれば、私は別の誰かに代わってお金を稼いだり、ご飯を作ったりゴミ出ししたりできるからである。 自分がしなければいけないことを誰かがしてくれるので、そうやって浮いたリソースで他人のしなければいけないことを代わりにやってあげる。 それがレヴィナスの言うpour autre (他者のために/他者の身代わりとして)ということの原基的な形態だと思う。 それが「交換」であり、それが人性の自然なのだと私は思う。 I cannot live without you というのはたいへん純度の高い愛の言葉である。 このyouの数をどれだけ増やすことが出来るか。 それが共同的に生きる人間の社会的成熟の指標であると私は思う。
2006.07.05
若いライター志望の人に読書上のアドバイスをひとことと頼まれたので、次のようなことを申し上げる。
できるだけ今の自分と生きた時代も生きた場所も縁の遠い人間の書いた本を読むこと。
世界観も宗教も感受性も身体感覚も、まるで違う人のものを読んで、それにぶるぶるっと共振するものが自分の中に見出せたら、その震えは「人間にとってかなり汎通性の高いもの」だということである。
ある種の書物が歴史の風雪に耐えて何千年、何百年と生き残ってきたのは、そのような共振力が他に比して圧倒的に多いからである。
古典的名作というのは「とっつきにくく」て、同時代の同じような年齢で同じような立場で似たような趣味好尚の書き手が書いたものは「わかりやすい」というのは嘘である。
2006.06.08
「言語(lengua)は魂なんだよ」
ここでいう魂とは、スペイン語のespirituの訳である。espirituを『西和中辞典』(小学館)で引くと、精神、霊、魂、気質、才気などに続き、帰属意識、身内意識という意味が出てくる。
2006.06.16
光り輝く湖、アラスカにはこんな美しい湖が数えきれないほどあるのに、なぜひとつひとつに感動してしまうのだろう?
2006.06.01
大空はみんなのものだ決して独占すべきではない。
人は泣きながら生まれてくる。泣きたくなる朝があってもよい。
2006.04.17
一日のためなら、一生など棒に振ってもいい。
北杜夫
人生の真実は、美味で、恐ろしく、魅力的で、奇怪、甘くて、苦い。そしてそれがすべてである。
A.フランス
2006.03.23 川の上の生活
地球という惑星に生まれ落ちてしまった人間は、誰もが自分の旅をしなくてはならない。このことをしばしばカヌーにたとえて話しをするネイティブの人たちと
多く出会ってきた。つまり、わたしたちはひとりひとりすべての人間に、人生という川を下るためのカヌーが一艘ずつ与えられているのであると、その人たちは
いうのだ。そのカヌーは一人乗りで、カヌーをこぐパドルも一本しかついていない。そして人生からなにかを得ようと思ったら、われわれはそのカヌーに乗り込
んで、川を下るためにパドルで水を漕ぎはじめなくてはならないと。
自分の旅がどのようなものであったかを旅の途中でみんなと分けあうことはできる。今はおだやかな流れの川の旅がどんなに冒険にみちたものであったか をおもしろおかしく語ることもできる。どこにどんな障害物が待ちかまえているか、とか、天気と川の流れの関係などの話も、聞けばそれなりに役に立つだろ う。だがひとつだけはっきりしているのは、わたしはあなたのカヌーを漕ぐことはできないということである。人は自分のカヌーは自分で漕がなくてはならな い。
よい旅を!
2006.02.13
「私は私が書いている言葉の主人ではない。むしろ言葉が私の主人なのだ。」
「言葉の力」とはそれを思い知る経験のことである。
早熟の書き手なら十代でそれを経験する。
「言葉の力」には言葉に対する畏怖と欲望、不安と信頼とがないまぜになっている。
言葉を単なる主体の思考や美的感懐の表現手段だと考えている人々は「言葉の力」についに無縁な人々である。
2006.1.18
「資格や肩書きがものを言うと思っている人間」の前には「資格や肩書きがものを言うと思っている人間たちだけで構成されている社会」への扉しか開かないし、「金で買えないものはない」と思っている人間は「金で買えるものだけ」しか存在しない社会の住人になる他ない。
2006.1.18-本のはらまき
「自分探し」禁止
2006.1.18
「未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。(…)未来の
先取り、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、真正の未来ではない。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれ
を捉えるものなのである。未来とは他者なのだ。」(原田佳彦訳、法政大学出版局、1986年、67頁)
田坂広志
2006.1.17
「小賢は山陰に遁し、大賢は市井に遁す」
反面教師というの内面教師なんだね。深みのある方というのは自分の心の奥にあるエゴの動きがよくわかっているかた。
2006.1.11
「幸せになる方法。
1時間の幸せは、お酒飲むか女と寝るか。
1日幸せになりたかったら、ショッピングモールにいくか、ゴルフ。
1ヶ月の幸せは、宝くじにあたることで、
半年の幸せは、結婚することだ!そう、結婚は一度はしておくべきだ!
一生幸せになりたけりゃ・・・、グランドキャニオンを歩くことさ!!」
2005.12.15
Have a Dream.
But Don't Dream Up.
星野道夫
2005.11.02
ルース氷河は、雪・氷・岩だけの、壮大な、そして無機質な山の世界です。
あふれる情報の海の中で暮らす今の日本の子供たちにとって、それは逆の世界です。テレビも、コンピューターゲームも、マンガもありません。
何もないかわりに、そこにはシーンとした宇宙の気配があります。
氷河の上で過ごす夜の静けさ、風の冷たさ、星の輝き・・・
・・・情報が少ないということは、ある力を秘めています。
それは、人間に、何かを想像する機会をあたえてくれるからです。
2005.10.31
僕に欲しいものはこの、眼だ。
MMから一部
2005.9.20
中内さん、夢っていうのは必ず破れるものですよね。
どんな夢を見ていても、いつか夢から覚めるときがくる。
夢なんですよ、すべては。
人はみなこの世を去って、また夢を見るのかもしれない。
中内さん、今あなたはどんな夢をみていることでしょう?
おやすみなさい。
海亀通信
September 14, 2005
イラク戦争の戦費は、日本がアメリカ国債を買ったことによって成り立っていた。『ウォールストリート・ジャーナル』2005年8月8日号のインターネット版記事によると、
「郵政民営化法案は廃案となったが、これは手取りの時期が少し延びたに過ぎない。ほんの少し待てば、われわれは3兆ドルを手に入れることができる」
と述べているそうだ。むろん、3兆ドルとは、日本国民の郵便貯金350兆円のことだ。参議院が法案を否決した時点での記事である。
そして今回、自民党が圧勝して、ついに単独過半数を獲得した。イラク戦争の血の海がまだ乾いていないとき、ブッシュは再選され、自民党も不可解な ほどの大勝利を収めた。ここには、なにか異常な空気が感じられる。その空気とはなにか考えているうちに、ふうっと思いあたるものがあった。
ヒトラーは、選挙によって合法的に政権を手中にした。ドイツ国民がかれを選び、かれに権力を与えたのだ。その結果が、世界第二次世界大戦であり、 600万のユダヤ人虐殺であった。むろん私は、ブッシュ大統領や小泉首相がヒトラーに似ていると言いたいのではない。そうではなく、ヒトラーという一人の カリスマに熱狂して、かれを選挙で選んでしまったあの時代の空気といったものが、現在と共通性をもっているのではないかと疑っているのだ。
マックス・ピカートは『われわれ自身のなかのヒトラー』(佐野利勝訳 みすず書房)で次のようなこと述べている。この本は、驚くべきことに1946年に初版が出ている。第二次世界大戦が終わった翌年のことだ。おそらくピカー トは20世紀の狂気が吹き荒れるさなかに、ひとり静かに目覚めながら、この本を書きつづけていたのだろう。その冒頭を引用しよう。かなり長い引用にになる けれど、どうか注意深く読んでください。
「一九三二年、ドイツを旅行していたときのことであるが、或る日、ドイツの大政党の党首がわたくしを訪問して、一体ヒトラーがこんなに有名になり、 こんなに信奉者を獲得できたのはどうしたことだろうとわたくしにたずねたことがある。わたくしはたまたま机のうえに置いてあった絵入新聞を指さして、どう ぞ、それを見てください、と彼に答えた。第一面にはほとんど全裸の踊子の挿絵が載っている。第二面では一個連隊の兵士が機関銃操作の訓練をうけており、 (中略)第四面にはY工場の休憩時間における工員たちの体操の写真があり、その下には南米インディアンの一種族の結縄文字が印刷されている、そして、その 真横に避暑地での衆議院議員A氏が立っている。…………」
「現代人が外界の事物をうけ取るやり方はこうなのです、とわたくしは言った。現代人はあらゆるものを、なんの関連もない錯乱状態のままで、手当たり しだい掻きあつめてくるのですが、それは、現代人のこころのなかにも一種の支離滅裂な錯乱状態を呈していることの証拠にほかなりません。(中略)そこに外 界の一種の支離滅裂な錯乱状態が動いて来る、というのが実情です。したがって、何がわが身に降りかかりつつあるかは、いっこうに吟味されない。人々は、と にかく何事かが起こり来たりつつあるという、そのことだけで満足なのです」
「そして、このような連関のない錯乱状態のなかへは、どんなことでも、また、どんな人物でも、容易にまぎれ込むことができるのは言うまでもありません。どうしてアドルフ・ヒトラーだけがまぎれ込まないことがありましょう」
ピカートは、絵入新聞やラジオが、こうした連関性の喪失をもたらしていると説いていくが、これをテレビに置きかえるとわかりやすいだろう。恋愛ド ラマの途中、戦争のニュースの途中、乱脈にCMが挿入されていく。人の感情の流れは、15分か20分ぐらいしか持続しない。そのような感性は、意味の関連 性をつくりだせない。外部世界は、CMのように氾濫するイメージに等しくなっていく。テレビによって培われた人間の内面は「モザイク化していく」と、トフ ラーも述べている。
だから、経験の時間軸がない。ものごとを意味化できない。そうした、ばらばらに「モザイク化」した感性こそが、ヒトラーを歓迎し、熱狂し、かれに 権力を与えてしまったのだ。ピカートは、20世紀の狂気のさなかに、テレビがもたらす錯乱をすでに透視していたように思われる。もう少し、引用をつづけよ う。
「世界は解体したのだ。そして、もろもろの対象はなんの連関もなくばらばらに、これまた何らの連関性をもたない人間のかたわらを素通りして行くにす ぎないのである。何が素通りして行くかはどうでもよい。肝心なのはただ、とにかく何物かが素通りして行くという単なる事実だけである。従って、このような 連関性なき事物の羅列のなかへは、どんなものだってまぎれ込むことができるのであって、アドルフ・ヒトラーがまぎれ込んだからといって、別に不思議ではな い。事実また、もはや何ものも出現しなくなってしまうよりは、少なくともまだアドルフ・ヒトラーが出現するということの方が、人々にとっては有難いのであ る。(中略)素通りしつつあるこの錯乱状態が跡絶えないように配慮を怠らない彼ヒトラー……」
「だから、ヒトラーはこのような外部世界の錯乱状態のなかにあって、容易に人間内部の錯乱状態のなかに忍び込むことができ、また、このような支離滅 裂な連関性喪失の状態のなかで、気まま勝手にどのようなところにも顔を出すことができたのである。また、彼はどんなものにでも順応した。それもそのはず、 彼はなんらの連関性ももたないその本性上、あらゆる連関なきものに対する順応性をそなえていたのである」
「そして、この錯乱状態のなかで、随時随所に、何度でもくり返し顔を出すことによって、彼はその他の支離滅裂な連関性なきものよりも、ひときわ目 立った存在になったのだ。やがて、人々は彼に馴(な)れ、彼を受容するようになった。それはちょうど新聞紙上にぶちまけられた雑多な広告のなかで、くり返 しくり返し出てくる練歯磨を、人々が買うにいたるのと同様である。かくしてヒトラーは、その他のあらゆるものが現れたかと思うとすぐ消えてゆくに過ぎな い、この世界のなかで、当然ながら唯一真実なるもののように見えてきたのである」
「そのようなことが可能なのは、現代社会ではだれもが無目的につるつる滑ってゆくからなのだ」
このように連続性や関連性を失ってしまったことが、いちばん恐ろしいことに思われる。今回の選挙は「郵政民営化」だけが焦点ではなかったような気 がする。血の海がまだ乾いていないのに、ブッシュ大統領は再選された。それと共通するものがある。その不可解さは、ヒトラーが合法的に権力をにぎった時代 の空気にも似ている。私にはそのように思われる。
こうした熱狂の中心にあるのは、やはり民族感情ではないか。ピカートもまた、連関性が失われた世界においては「一個の空無、もしくは一個の低劣な るもの、もしくは一個の凡庸なるものが絶対者の地位におしあげられ、まるでそれが——そのまわりに万人が群れ集まらねばならないところの——民族の中心で あるかのように」変化していく恐ろしさを強調している。
次にやってくるのは憲法改正だろうか。この改正という言葉はおかしい。改悪でも、恣意的すぎる。「改革」といったようなスローガンで盲目にされてしまう前に、意識化していかなければ大変なことになってしまう。
政治の話をしたいのではない。ここに述べたような、連続性の喪失、関連性の喪失、ものごとを意味化できなくなってしまった「モザイク化」した感性 をどうしたらいいのか、そこから始めなければならない。テレビに踊らされない統一的な自分をつくりだしていくのは、やはり言葉であると思う。テレビを消し て、本を読まなければ。
文芸復興は、もう笑いごとではなく、ほんとうに、ほんとうに必要なことだ。言葉を回復させなければ、大変なことになるよ。