環境世界を「ずらす」
それが「すべての人間は権力、財貨、威信、情報、文化資本などなどのリソースを欲望している」という条項への同意署名した、ということにされると私は困る。
そのようなことにうかつに同意署名した場合、私たちの社会がそれまでより住み良くなるか住みにくくなるか、これは誰でもわかる。
生物システムにおいては、欲望は同一対象に集中してはならないからである。
同一の空間に生物がひしめきあって、限定されたリソースを分かち合っているときには、種によって体型や活動時間帯や活動域や食性を異にする方がシステム維持上安全である。
それゆえ、生物はサイズや機能や生態を多様化している。
夜行性と昼行性の生物では同じ空間にいても場所の奪い合いが起こらないし、肉食動物と草食動物の間では食物の奪い合いは起こらない。
トカゲは枯れ葉の動く音には反応するが、銃声には反応しない(トカゲの環境世界には銃声を伴う危険が存在しないからである)。
すべての種は他の種と環境世界を「ずらす」ことで限定された環境資源を最大限に活用し、かつおのれ自身の限られた生物資源をもっとも有利な機能に限定して発達させている。
人間も生物である以上そうすべきだろう。
だから、「社会は同質的な個体ばかりで形成されるべきである」という主張に軽々には与すことができないのである。
たしかに、世界中どこにいっても人間のありようが標準化・規格化されると、生きる上ではいろいろな便益があるだろう。
世界中どこでも乾電池やカセットテープの規格が同じであるように、万人が同じ言葉をしゃべり、同じロジックを用い、同じものを欲望し、同じものを忌避するとしたら、たしかにコミュニケーションは容易になるだろう。
けれども、そのような世界は個体の生存にとっても種の生存にとってもきわめて不利な世界だということを忘れてはいけない。
個体レベルで言えば、それは「いくらでもあなたの代替物がいる」ということだからである。
あなたと同じ欲望を持ち、同じ行動規範に律される個体の数が増えるほど、あなたの唯一無二性は損なわれる。
だって「いくらだって替えがいる」んだから。
現に、労働史的に見た場合、均等法以後、労働者の労働条件は一貫して劣化してきた。
求人が一定で、求職者の数が増えれば、労働条件は切り下げられるのは当たり前のことである。
これは女子労働者への雇用機会の拡大であると同時に、誰からも文句がつかない「政治的に正しい」コストカットだったのである。
均等法の導入に財界が何も文句を言わなかったということから推して、これが労働者を保護するための法律ではなく、労働者をより効率的に収奪するための法律であることに気づいてよかったはずであるのに、メディアはそのことをほとんど報じなかった。
「人間なんてみんな欲しいものは同じだよ」という言明を私が「遂行的」なものではないかと懐疑するのは、この言明が「自明の前提」とされることそれ自体から構造的な利益を得ている人々が現にいるからである。
自明のことを確認しておこう。
グローバル資本主義にとって性差は無意味である。
むしろ性差はできるだけ社会的に無意味であることが望ましい。
内田 樹