戦争の悲しみ
『戦争の悲しみ』

"暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全24巻(第1集))" (バオ・ニン, 残雪)
すごく運がいいことに、日本では平和が60年以上続いている。
きみもぼくも、いや日本人のほとんどが、現実の戦争がどういうものか知
らないよね。
ある男が17歳で戦争に行った。
悲惨きわまる戦闘の日々が数年続いて、ようやく戦争は終わった。
生きて帰った彼は作家になろうと思った。自分の体験を書こうと思い立っ
た。
しかしそれはとてもむずかしいことだった。
戦争のために彼の人格は壊れてしまっていたんだ。
心がぼろぼろになっている。思い出すのも辛いことはどうやって書けばい
いんだろう。
それでも彼は書こうとする。自分の体験に意味があると信じるからだし、
死んでしまった仲間や敵があまりに哀れだから。
書くのは辛いけれど、彼は力を尽くす。
戦争はベトナム戦争であり、従軍した男バオ・ニンはベトナム人。
『戦争の悲しみ』は、戦争についての小説であると同時に、戦争について書
くことのむずかしさを書く小説でもある。読んでいて二重に息苦しい。
それでも先へ先へと読ませる力がある。そこがすごいね。
あの戦争についてはアメリカ側にもいい小説がある。たとえば、ティム・
オブライエンの『カチアートを追跡して』とかね。
だけど、彼らは遠い国に攻めていった方だ。
攻められた側とはずいぶん事情が違う。
自分の国が戦場になるというのは、成人男子だけでなく子供も老人も女た
ちも、みんなが戦闘に巻き込まれるということだ(日本でいえば沖縄戦。あ
るいは各地の空襲)。
だからこの小説には何人もの女が登場する。みんなひどい目に遭う。
主人公キエンは、戦争が終わった時、しっかりした絆で結ばれていたはず
の恋人フォンを失ってしまったことに気づく。
二人とも死なないで済んだのに、仲は元には戻らない。
戦争が彼らのセクシュアリティーを、それぞれ別のやりかたで、壊してし
まった。
彼らはまともな男と女ではなくなってしまった。
そういうところまで書いた戦争小説って、他にないよ。
戦闘のエピソードがたくさんある。
ものすごい雨の中、ある兵士が砲弾でできた穴の底で敵兵に遭遇する。
必死の思いで相手を銃剣で刺す。
でも相手の南側のベトナム兵がその前にすでに重傷を負っていたことに気
づく。
彼はなぜか相手を助けなければと思って、救急バッグを探しに行く。
すごく不思議な心理だけど、そういうことってあるんだね。
もう戦場には敵も味方も誰もいない。
大雨の中を走り回って、ようやくバッグを見つけて戻ろうとしたんだけど、
どの穴だかわからない。砲弾の穴は無数にあるんだ。
焦っていくら探しても傷ついた敵兵は見つからない。
穴には雨水がどんどん流れ込んでいる。
動けないままゆっくり溺死させてしまった兵士のことをずっと気にかけな
がら、彼は戦後の日々を生きる。
バオ・ニンは戦争の悲惨を書いた。
それ以上に戦争の悲しみを書いた。
悲惨だけならいくらでも大袈裟に書ける。
でもこんな悲しみの方はたぶん体験しないと書けないだろう。
体験したからこそ、書くのは辛かっただろう。
池澤夏樹